ドイツ文学者であり、日本のモンテッソーリ教育の先駆者 – 鼓常良が遺したもの

鼓常良(1887–1982)/参考資料をもとにAIで生成したイラスト
『幼児の秘密』『子どもの発見』『子どもの心』。モンテッソーリ教育を学ぶ人にとって、繰り返し開く機会のある本ではないでしょうか。これらの日本語訳を手がけたのが、鼓常良(つづみ・つねよし)です。
その名前は、ゲーテの『ファウスト』の訳者としても残っています。ドイツ文学を教え、ベルリンで日本美術を論じた学者が、やがて京都で幼い子どもたちの育ちに向き合うようになる。鼓さんの生涯には、モンテッソーリの翻訳者という肩書きだけでは見えてこない、長い歩みがありました。
第1回のクラウス・ルーメルに続き、今回は、日本モンテッソーリ協会の初代会長でもある鼓常良を紹介します。
ゲーテを訳し、人間の歴史を読み解く
鼓常良は、1887年7月27日、広島県に生まれました。東京帝国大学の独文科を卒業し、旧制第八高等学校や大阪市立大学などで教えた、ドイツ文学・美学の研究者です。
翻訳の仕事をたどると、1925年の『ゲーテ全集』第6巻に収められた『若きウェルテルの悩み』、1950年に三笠書房から刊行された『ファウスト』などが見つかります。モンテッソーリの著作を訳す以前から、ドイツ文学の代表的な作品を日本の読者に届けていたのです。
さらに、1948年から1949年にかけて、ヘルダーの『人間史論』を翻訳しています。人類の歴史を、自然や各地の文化との関わりから考える大きな著作です。日本ヘルダー学会会長の高橋輝暁さんは、2025年の書評でも、日本におけるこの著作の翻訳史の一つとして鼓訳を挙げています。
小説や戯曲から、人間の歴史や文化を考える思想書まで。その仕事の幅を知ると、晩年のモンテッソーリ翻訳が、長い研究と翻訳の蓄積の上にあることがわかります。
ベルリンで、日本の芸術を語った人
鼓さんは、日本の芸術を海外に紹介する仕事もしていました。1927〜1928年にはベルリンで日本美術について研究発表を行い、1929年にはドイツ語の著書『Die Kunst Japans』を刊行しています。
鼓さんが注目したのは、日本の芸術と暮らしの近さでした。作品だけを切り離して見るのではなく、日々の生活や自然とのつながりの中に、美しさを見いだそうとしたのです。
保育所を引き受け、幼児教育を学び直す
幼児教育との出会いには、身近な人からの相談がありました。
娘の川村洋子さんの回想によれば、1953年、妻の聲(のぶ)さんが通う京都・桂の教会の牧師から、工事費を支払えず建設が止まった保育所を買い取ってもらえないかと頼まれます。相談を受けた鼓さんは、退職金もあったことから、その施設を引き受けました。
園長として学ぶ必要を感じた鼓さんは、馴染みの書店に、ヨーロッパで注目されている幼児教育の本を取り寄せてもらいます。その中に、モンテッソーリの著作がありました。
大学で教えてきた学者が、幼い子どもを預かる立場になり、必要な知識を学び直す。この経緯からは、新しい役割を引き受けたあとに、自分の専門の外へも学びを広げていく姿が見えてきます。
孫を案じる気持ちも、翻訳の動機に
1957年、鼓さんが70歳を迎える年に、『子供の秘密――幼少年期の心の解剖と育て方』が日本教文社から刊行されました。マリア・モンテッソーリの著作を、鼓さんが日本語に訳した本です。
洋子さんによれば、翻訳の動機には、鼓さん自身の孫への思いもありました。生まれたばかりの孫や、これから生まれてくる孫に、その子たちを育てる親が誤った接し方をしてしまわないか。祖父として、そんな焦りも感じていたといいます。
当初の翻訳は、イタリア語の原著を訳したドイツ語版から日本語に移す「重訳」で、その点への気がかりもあったそうです。鼓さんは後に実践を重ねて訳し直し、1968年に『幼児の秘密』として刊行しました。
『幼児の秘密』という一冊の背景には、研究者としての仕事と、身近な子どもの成長を案じる気持ちが重なっています。原著の思想を知る手がかりになるのはもちろん、訳者にもまた、子どもの育ちについて切実に考える理由があったのです。
その後、1971年には『子どもの発見』『子どもの心――吸収する心』も刊行されました。80歳を過ぎても、鼓さんの翻訳の仕事は形になり続けていました。
強い確信が、周囲との摩擦を生むこともあった
実践の場では、どのような人だったのでしょうか。
1962年、鼓さんは京都・桂に幼児教育研究所を設立し、附属の「月見が丘子どもの家」でモンテッソーリ教育に取り組みました。
ここで関わるのが、ドイツでモンテッソーリ教育を学んだ赤羽惠子さんです。赤羽さんの回想では、1963年に鼓夫妻がケルンを訪れ、学校見学を案内しています。帰国後に訪ねた京都の園では、鼓さん自身が園舎の隣の小屋で、子どもに教具を紹介していました。
1964年、赤羽さんが園に加わり、4月から全面的にモンテッソーリ教育へ切り替える方針が立てられます。その際、鼓さんは職員や保護者に「モンテッソーリ教育に反対の方は退学していただきます」と宣言したと、赤羽さんは記しています。その後、赤羽さんは職員から敬遠され、保護者からも冷たい目を向けられるようになったそうです。
この回想が伝えているのは、鼓さんの宣言と、現場で赤羽さんが経験した戸惑いです。実際に退学が行われたかどうかまでは記されていません。
自ら子どもの前に立つ熱意と、方針を強く押し出す厳しさ。その両方がうかがえるエピソードです。教育への確信が強くても、一緒に子どもを支える教師や保護者の理解が自然にそろうわけではないことも、この記録は伝えています。
本を届け、教師が学ぶ場を支える
1968年、日本モンテッソーリ協会が発足し、鼓さんは初代会長に就任しました。第1回で紹介したルーメルさんは、のちに第3代会長を務めています。
1973年に赤羽惠子さんが創設した京都モンテッソーリ教師養成コースでも、鼓さんは当初の委員長を務めました。先ほどの摩擦のエピソードだけで、二人の関係を語り切ることはできません。教師を育てる場にも、二人の仕事がつながっています。
そして1974年、横浜に梶山モンテッソーリスクールが開設されます。創立者・初代園長は、娘の川村洋子さん。洋子さん自身も、松本静子さんが開設した東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンターの第1期生として学びました。
書籍の翻訳、園での実践、教師養成、そして家族が受け継いだ教育の場。鼓さんの関わりは、いくつもの形で残りました。
93歳6か月の生涯を、訳書の向こうに見る
鼓常良は、1981年2月7日、93歳6か月で亡くなりました。
ゲーテやヘルダーを訳した文学者。日本の芸術を海外で論じた研究者。幼児教育を学び直した園長。そして、孫の育ちを案じた祖父。その歩みには、学問への探究心と家族への思い、実践への熱意と周囲との摩擦がありました。
私たちが子どもを観察し、大人の関わり方を考えるとき、モンテッソーリの著作を日本語で読めることは大きな支えになります。その言葉を届けた人にも、子どもと向き合い、試行錯誤を重ねた時間があった。
鼓常良の名前を知ってから、もう一度その訳書を開いてみる。読み慣れた一冊の向こうに、それを日本へ伝えた人の生涯が見えてくるのではないでしょうか。
鼓常良の主な著書・翻訳書
モンテッソーリ教育の書籍に加え、文学・思想・芸術に関する仕事からも紹介します。書名の表記は読みやすく整えたものがあり、刊行年は記載した版の情報です。同じ作品でも訳者の異なる版があるため、購入・閲覧時には訳者名をご確認ください。
※現在は絶版または品切れとなっている書籍もあり、リンク先では新装版や中古本、検索結果が表示される場合があります。
そのほかの主な著書・翻訳書
鼓常良は、モンテッソーリ教育の書籍だけでなく、ドイツ文学や思想、日本美術に関する多くの著書・翻訳書を残しています。現在は入手が難しいものもありますが、その仕事の広がりを知ることができる主な書籍を紹介します。
- 『子供の秘密――幼少年期の心の解剖と育て方』
マリア・モンテッソーリ著/鼓常良訳/日本教文社/1957年 - 『生活教育法――モンテッソーリ教育実践の秘訣』
鼓常良著/鼓幼児教育研究所 - 『教育のあるべき姿――モンテッソーリ教育の意義』
鼓常良著/桂幼児教育研究所 - 『若きウェルテルの悩み』
ゲーテ著/鼓常良訳/大村書店『ゲーテ全集』第6巻収録/1925年 - 『ファウスト』
ゲーテ著/鼓常良訳/三笠書房「世界文学選書29」/1950年 - 『人間史論』全4巻
ヘルダー著/鼓常良訳/白水社/1948〜1949年 - 『Die Kunst Japans』
鼓常良著/Insel/1929年
日本美術についてドイツ語で論じた著書
参考資料
- 日本モンテッソーリ協会『50年のあゆみ』――川村洋子「月見ヶ丘子どもの家(京都市)」52頁
- 日本モンテッソーリ協会「歴代会長」/「協会(学会)の沿革」
- コトバンク「鼓常良」――『20世紀日本人名事典』『日本人名大辞典+Plus』
- 東京ゲーテ記念館「邦訳『ファウスト』の歴史」
- 高橋輝暁「ヘルダーの『人類歴史哲学考』のすすめ」――『図書』2025年4月号
- 小田部胤久「Tsuneyoshi Tsuzumi, Vorläufer einer komparativen Ästhetik. Seine Theorie der Rahmenlosigkeit」
- 小田部胤久「The Aesthetic Life: a Leitmotif in Modern Japanese Aesthetics」
- 赤羽惠子が語る「モンテッソーリ教育との出会い」(1993年)
- 京都モンテッソーリ教師養成コース・創立50周年の紹介
- 梶山モンテッソーリスクール「当園について」
- 高橋節子「子どものための物理的環境とは何か」(2015年、付録の著作一覧)
-
-
2026.09.07カテゴリ / コラム モンテッソーリを伝えた人たち
ドイツ文学者であり、日本のモンテッソーリ教育の先駆者 – 鼓常良が遺したもの
-
-
2026.09.07カテゴリ / コラム モンテッソーリを伝えた人たち
広島で被爆し、日本のモンテッソーリ教育を支えたドイツ人神父 – クラウス・ルーメルの生涯
-
-
2026.09.07カテゴリ / コラム 子どもの睡眠
子どもの覚醒を少しずつ下げる – 寝る前の1時間にできること
-
-
2026.09.06カテゴリ / コラム 赤ちゃんの発達と子育て
赤ちゃんにモビールは必要? まだ手を伸ばせない時期に育っている「見る力」
-
-
2026.09.06カテゴリ / コラム
日本でモンテッソーリ教師の資格が取れるところって?
-
-
2026.09.06カテゴリ / コラム 赤ちゃんの発達と子育て
赤ちゃんとの関係は、生まれてから始まる? 妊娠中から変わり始めるママの心と脳