マリオ・モンテッソーリ – 母の教育を受け継ぎ、世界の教師養成を支えた人

マリオ・モンテッソーリ/当時の写真資料を参考にAIで制作したイラスト
マリア・モンテッソーリの息子、マリオ・モンテッソーリ。
母の隣に立つ写真や、講義を通訳する姿から、その名前を知った人もいるでしょう。けれども、マリオの仕事は、母に付き添うことだけではありませんでした。
子どもたちと野外へ出かけ、植物や生き物を観察する。土や石を使って、地形の成り立ちを見せる。そこで気づいたことを母と話し合い、教育の内容を深めていく。そして母の死後には、世界各地で教師を育てるための仕組みを整えていきました。
マリオは、モンテッソーリ教育を受け継いだ人であると同時に、母とともに、その教育を育てた人でもありました。
本人の回想や家族の言葉、残された写真と映像から、その歩みをたどります。
母と離れて育ち、やがて同じ仕事へ
マリオは1898年、マリア・モンテッソーリと医師ジュゼッペ・モンテサーノの間に生まれました。幼いころはローマ近郊の家庭に預けられ、母とは離れて育ちました。マリアは、その間も息子を訪ねています。
十代で母と暮らすようになり、1915年には、ともにアメリカへ渡りました。やがて、母が各国で続ける講義や教師養成を支えるようになります。
1925年には、ロンドンの教師養成コースでディプロマを取得しました。母の仕事を間近に見ながら、自分自身もその教育を学び、伝える側へと歩んでいったのです。
母子の生い立ちと活動については、AMIの略歴と公式年表に記録されています。
言葉を訳し、考えを形にする協力者
マリアがイタリア語で語った考えを、海外の受講生へ届ける。その大切な役割を担ったのがマリオでした。
AMIの紹介では、旅への同行や通訳、教師養成の補助に加え、著書の執筆や編集にも関わったことが記されています。
娘のマリレーナ・ヘニー=モンテッソーリの回想には、さらに具体的な姿が残っています。マリオは、コースの運営や受講生の試験、教具や日常生活の練習についての講義を引き受け、母の考えを明確にし、形にすることにも力を貸していました。
母の話を理解するだけでなく、新しい考えを差し出す相手でもあったのです。
1929年、母子はデンマークのヘルシンゲルで開かれた第1回国際モンテッソーリ会議の際に、AMI(国際モンテッソーリ協会)の設立に携わりました。各地へ広がる教育を支え、その原則を受け継いでいくための組織です。
講義の場で言葉を届ける仕事と、教育を長く伝えるための組織をつくる仕事。その両方に、マリオは関わっていました。
3か月の予定が、約7年の滞在に
1939年、マリアとマリオは、神智学協会の招きでインドへ向かいました。当初の予定は、3か月ほどの教師養成コースでした。
ところが、戦争が二人の行く先を変えてしまいます。ヨーロッパへ戻ることができたのは1946年。短い訪問のはずだった旅は、約7年に及ぶものとなりました。
その途中、母子は再び引き離されます。1940年6月、イタリアの参戦によって、イギリス統治下のインドにいたマリオは敵国人として抑留されました。マリアも、神智学協会の敷地内に行動を制限されます。
AMIが紹介する再会の記録によると、マリオが解放されたのは1940年8月31日。マリアの70歳の誕生日でした。母や友人、外交関係者たちの働きかけの末に、二人は再会を果たしました。
1940年8月31日|マリアの70歳の誕生日、抑留から解放されたマリオとの再会。出典:AMI「Celebrating Maria Montessori’s Birthday」。
インド滞在の約7年間を、ずっと収容所で過ごしたわけではありません。解放後、マリオは母とともに教師養成を再開しました。
帰国の見通しが立たない日々のなかでも、二人のもとには、教育を学ぼうとする人たちが集まってきました。
インドの丘で、子どもたちと学び直す
2007年|南インド・コダイカナルの山並み。コーカーズ・ウォークからの眺め。写真:M.arunprasad/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。
南インドの高地、コダイカナル。ここでの日々について、マリオは後年、デイヴィッド・カーンのインタビューに答えています。
その回想には、オランダに残した自分の子どもたちを心配し、仕事の合間に一人で森へ出ていたことも語られています。マリアの息子であるマリオは、遠く離れた家族を案じる父親でもありました。
この地で母子と協力した一人が、スリランカ出身の教育者、レーナ・ウィクラマラトネです。レーナは近くの小さな家で、4人の子どもたちとの活動を始めました。やがて年長の子どもたちも集まり、学びの場が広がっていきます。
レーナの回想によると、マリオは毎日のようにその場を訪れ、子どもたちと葉や花を見たり、池の生き物を観察したりしていました。苔や水辺の植物を持ち帰り、水槽や飼育環境を整えることもありました。
地理の活動では、石や粘土、木を使って構造物をつくり、山の成り立ちや土の性質を見せていたといいます。
マリオ自身も、植物と動物の関係を子どもたちに見せようとしていたこと、そこで考えたことを母と話し合い、考えが育っていったことを語っています。
完成した理論を説明するだけでなく、子どもたちと実際の世界に向き合うことが、教育を深める仕事になっていたのです。
マリオ本人が語ったコダイカナルでの経験(1979年のインタビュー再掲載)
図表の向こうに、本物の世界がある
インドでの経験を通じて深められたものの一つが、小学生のための「コスミック教育」です。宇宙や地球、生命、人間の営みを、互いにつながるものとして学んでいきます。構想はインドへ渡る前から進められていましたが、この地での実践は、その発展に重要な役割を果たしました。
先ほどのインタビューで、マリオは、図表や年表を集めて、それをコスミック教育と呼ぶだけでは不十分だと強調しています。大切なのは、実際の経験によって、子どもの想像力を助けることでした。
レーナも、名称や分類を教える前に、大人自身が自然の中へ出て、違いに気づき、観察する経験を持つことの大切さを語っています。
教具や図表は、世界の見方を助けるものです。しかし、それが世界そのものに取って代わるわけではありません。
幼児に関わる私たちにとっても、これは心に留めたい視点です。葉の形を示す前に、一緒に庭の葉を手に取ってみる。花の部分の名前だけでなく、花そのものの違いや美しさに気づく時間を持つ。小学生の内容を早く教えることではなく、子どもが本物と出会う機会を大切にしたいと思います。
子どもたちの輪の中にいるマリオ
1944年、マリアとマリオは、当時セイロンと呼ばれていたスリランカを訪れ、教師養成を行いました。コタヘナには、教育者ジョイス・グナセーカラと子どもたちのそばで過ごすマリオの写真が残っています。
掲載記事の写真説明では、子どもたちと楽しむ場面として紹介されています。演壇の上ではなく、子どもたちと同じ場所に立っている。その姿も、マリオの仕事を知るための一枚です。
娘マリレーナの回想に描かれるマリオは、自然や海、音楽、料理を愛する人でした。とりわけ赤ちゃんが大好きで、「奇跡を起こす人たち」と呼び、長く語りかけていたといいます。
教師養成や組織運営の記録に、こうした家族の言葉を重ねると、マリオの姿はずっと身近になります。教育を伝える人である前に、子どもや世界に強い関心を向ける人だったことがうかがえます。
母と歩んだ最後の年月
1946年、母子はヨーロッパへ戻りました。翌1947年にはロンドンでセンターを設け、再びインドで教師養成を行うなど、戦後も活動を続けます。
1947年のマリアへのインタビュー映像には、マリオも登場します。写真とはまた違う、母とともに活動していた時代の姿が残されています。
1947年|イタリア帰国後のマリア・モンテッソーリへのインタビュー。マリオも登場します(イタリア語・英語字幕)。年代と登場人物についてはAMIの解説を参照。
1951年、オーストリアのインスブルックでは、マリアが生涯で最後に担当した教師養成コースが開かれました。この地で撮影された母子の写真には、長く同じ仕事を続けてきた二人の姿が残っています。
1951年|オーストリア・インスブルックでのマリアとマリオ。この年、マリアは同地で最後の教師養成コースを担当しました。出典:AMI/Montessori 150。
母を失った日、その先に続いた仕事
マリオが1965年に発表した母の回想には、最期の日の出来事も記されています。
母と昼食をとりながら話していたのは、アフリカで教師を育てる仕事についてでした。マリアは81歳になっていましたが、子どもたちのために出かけようとしていた、とマリオは振り返っています。
アフリカの地図を探しに部屋を離れ、戻ったときには、母は亡くなっていました。1952年5月6日のことです。
長くともに旅をし、考えを交わしてきた相手を、マリオは失いました。それでも、教師を育てる仕事は終わりませんでした。
母の死後、マリオはAMIのGeneral Directorに就任し、妻アダと協力して活動を担います。AMI教師養成の歴史には、マリオの指揮のもと、各地に常設の養成センターを設け、教師を養成する人を育てるプログラムも整えられたことが記されています。
マリア本人の講義を受けられなくなっても、その教育を深く学ぶ道を残す。
それは、本や教具を保存することだけでは実現しません。子どもの観察や実践を重ねながら学ぶ場と、その学びを支える人が必要でした。
アメリカとベルガモへ、学びの場を広げる
1960年、マーガレット・E・スティーブンソンは、マリオの要請でアメリカへ渡りました。AMI/USAの沿革によると、その目的はモンテッソーリ教師を育てることでした。
彼女はワシントン・モンテッソーリ・インスティテュートを設立し、教師養成だけでなく、学校づくりの支援や研修、さまざまな相談にも応じます。そうした活動を支える組織として、1972年にはAMI/USAが設立されました。
一方、1961年には、マリオがイタリアのベルガモにCentro Internazionale Studi Montessorianiを設立します。センターの公式沿革では、小学校のモンテッソーリ教師を養成する、AMI初の常設センターと位置づけられています。
ここは教師を育てるだけでなく、マリアとマリオの未刊行の研究に取り組む場所でもありました。コダイカナルで子どもたちと深めてきた小学校教育を、研究し、伝え続ける仕事へつないでいく。世界各地から集まる受講生にとって、ベルガモはそのための拠点になりました。
教育を広めるとは、同じ人がいつまでも世界中を回り続けることだけではありません。学んだ人が、それぞれの土地で次の教師を育てられるようにすることでもありました。
日本で教師を育てる人を、どう育てるか
マリオは、日本での教師養成にも関わっています。
日本モンテッソーリ協会(学会)の機関誌『モンテッソーリ教育』第42号に掲載された、クラウス・ルーメルの「モンテッソーリ教育40年を顧みて(2)」には、上智での教員養成コース設置をめぐる、ハイドリッヒ師とマリオのやり取りが紹介されています。
ルーメルの回想によると、日本側が講師陣の大学教授としての資格を説明したのに対し、マリオは、その人たち自身がモンテッソーリの教師養成を受け、ディプロマを取得しているかを問いかけました。
日本側には、海外へ留学しなければ学べない状況を変え、一日も早く国内で学べる場をつくりたいという事情がありました。一方のマリオは、AMIの立場から、教育内容や講師の養成について確認を求めていました。
これは、学びの場を増やすという目的があっても、その進め方まで最初から一致していたわけではないことを示しています。
教える内容を知っていることと、その教育を伝える準備ができていることは、同じなのか。
このやり取りは、教師養成を考える私たちにも、そう問いかけているように思えます。
1975年には、松本静子が日本人初のAMIトレーナーとして公認され、東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンターを設立しました。日本でも、教師を育てる人と、そのための継続的な学びの場が育っていきました。
「教師を育てる人」の学びも支える
1973年、マリオの75歳の誕生日に、友人や同僚たちは「マリオ・モンテッソーリ75基金」を設立しました。目的は、モンテッソーリのトレーナーの専門的な養成を支援することでした。
AMIが紹介する基金の歴史によると、この基金は、その後もトレーナー養成プログラムと参加者を支えてきました。
マリオの名を記念するだけではなく、次に教育を伝える人の学びを助ける。その目的に、彼と周囲の教育者たちが重ねてきた仕事が表れています。
本人の声と、日本語で読める言葉
晩年のマリオが語るインタビュー映像も公開されています。歴史の中の名前として知るだけでなく、本人の声や話す姿に触れることのできる記録です。
晩年のマリオ・モンテッソーリ本人が語るインタビュー映像(英語)。
日本語で読める著書には、『人間の傾向性とモンテッソーリ教育[新版]』があります。AMI友の会NIPPONが訳・監修を担当し、2016年に風鳴舎から刊行されました。
人間に共通する「傾向性」を手がかりに、モンテッソーリ教育を考える一冊です。母の協力者、教師養成を支えた人という紹介から、さらに一歩進んで、マリオ自身が教育をどう理解し、伝えようとしていたのかに触れられます。
受け継いだのは、教具だけではなかった
マリオは1982年2月10日に亡くなりました。マリアの死から、およそ30年後のことでした。
その歩みには、母の講義を訳す姿だけでなく、子どもたちと野外へ出かける姿、自然の不思議を母と話し合う姿、教師を育てる人の準備を問い続ける姿があります。
モンテッソーリ教育を伝えることは、決められた手順をそのまま繰り返すことだけではありません。なぜその活動を用意するのか。目の前の子どもは何に関心を向けているのか。大人自身は、本当に観察しているのか。そうした問いを持ち続けることも含まれるはずです。
子どもと世界を見つめ、そこから考え、次に伝える人を育てる。
マリオが母とともに育て、次の世代へ渡したものは、教育の内容と、それを学び続けるための姿勢でした。
この記事で紹介した書籍
マリオ自身の著書と、母子がインドからヨーロッパへ戻った年の講義をまとめた関連書籍を紹介します。
著:マリオ・M・モンテッソーリ
訳・監修:AMI友の会NIPPON
出版社:風鳴舎
刊行年:2016年
人間に共通する「傾向性」から、モンテッソーリ教育を考える一冊。教育者としてのマリオ自身の言葉に、日本語で触れることができます。
著:マリア・モンテッソーリ
監修:AMI友の会NIPPON
出版社:風鳴舎
インドでの長い滞在から戻った1946年、マリアがロンドンで行った講義をまとめた一冊です。母子が教育を深めてきた時代を知るための、関連書籍として紹介します。
参考資料
- AMI/Montessori 150:マリア・モンテッソーリの略歴
- AMI:マリア・モンテッソーリの生涯年表
- Montessori Australia:娘マリレーナ・ヘニー=モンテッソーリによるマリオの回想
- AMI:1940年8月31日、マリアの誕生日とマリオとの再会
- デイヴィッド・カーンによるマリオのインタビュー「The Kodaikanal Experience」。『The NAMTA Quarterly』第5巻第1号(1979年秋)掲載。Susan Mayclin Stephensonのサイトに許可を得て再掲載。
- デイヴィッド・カーンによるレーナ・ウィクラマラトネのインタビュー「The Kodaikanal Experience」。『The NAMTA Quarterly』第5巻第1号(1979年秋)掲載。Susan Mayclin Stephensonのサイトに許可を得て再掲載。
- Roar Media:スリランカへの導入と1944年の写真(写真提供:AMI Training Centre)
- AMI:1947年のマリア・モンテッソーリの記録映像について
- AMI/Montessori 150:マリア・モンテッソーリの写真資料
- マリオ・モンテッソーリ「My Most Unforgettable Character」。『Reader’s Digest』(1965年)掲載。AMI/Montessori 150に許可を得て再掲載。
- Montessori Australia:AMI教師養成の歴史
- AMI/USA:設立と活動の歴史
- ベルガモCISM:教師養成センターの沿革
- クラウス・ルーメル「モンテッソーリ教育40年を顧みて(2)」『モンテッソーリ教育』第42号、日本モンテッソーリ協会(学会)。上智での教員養成コース設置をめぐる記述と書簡、特に124~128頁を参照。
- 『モンテッソーリ教育』第46号「ルーメル賞」松本静子会員の受賞理由、および第56号『心 つないで』の図書紹介。松本静子のAMIトレーナー公認とセンター設立について参照。
- AMI:マリオ・モンテッソーリ75基金の歴史
- Susan Mayclin Stephenson:マリアとマリオのインタビュー映像の紹介
- マリオ・モンテッソーリのインタビュー映像
- 風鳴舎:『人間の傾向性とモンテッソーリ教育[新版]』
- AMI/Montessori 150:『The 1946 London Lectures』
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