広島で被爆し、日本のモンテッソーリ教育を支えたドイツ人神父 – クラウス・ルーメルの生涯

クラウス・ルーメル神父(1916–2011)/参考写真をもとにAIで生成したイラスト
本棚に並ぶモンテッソーリの書籍を眺めていると、何度も目にする名前があります。
「クラウス・ルーメル」。
『モンテッソーリの発見』の監修者として、『児童期から思春期へ』や『子ども―社会―世界』の訳者として、あるいは『モンテッソーリ教育の道』の編著者として、その名前を見たことがある人も多いでしょう。
けれども、クラウス・ルーメルとは、いったいどのような人物だったのでしょうか。
調べていくと、彼は単にモンテッソーリの本を日本語にした翻訳者ではありませんでした。
日本モンテッソーリ協会の設立に加わり、日本で最初の教員養成コースを支え、およそ30年にわたって協会を率いた人物です。
現在、日本で多くの人がモンテッソーリ教育を学べるようになるまでには、実践を伝えた教師だけでなく、それを支える組織をつくり、教師を養成し、海外の文献を日本語で読めるようにした人たちがいました。
その中心にいた一人が、クラウス・ルーメル神父です。
20歳でドイツから日本へ
クラウス・ルーメルは、1916年9月28日、ドイツのケルン近郊にあるプルハイムで生まれました。
1935年、18歳でイエズス会に入会。1937年2月、20歳のときに日本へ渡り、下関に上陸します。
「S.J.」とは、カトリック修道会であるイエズス会の会員であることを表す略号です。書籍の訳者名に「クラウス・ルーメル S.J.」と記されているのは、そのためです。
来日後は、主に東京で日本語、哲学、神学などを学びました。しかし、戦争末期に東京への空襲が激しくなったため、1945年1月、広島の長束修練院へ疎開します。
1945年7月1日、広島で司祭に叙階されました。
そのわずか約1か月後の8月6日、広島に原子爆弾が投下されます。
爆心地から約4.5キロの修練院で被爆
被爆当時、ルーメルは28歳でした。
ルーメルがいた長束修練院は、爆心地から約4.5キロ離れた祇園町長束、現在の広島市安佐南区にありました。
建物は爆風を受けて窓ガラスや扉、天井などが破損しましたが、倒壊や火災は免れました。
ルーメルは即死を免れ、その後、修道院の仲間たちとともに負傷者の救護にあたります。傷ついた人を担架で運び、食べ物を配り、亡くなった人たちのために祈りました。
8月16日には、周辺で亡くなった人たちのために葬儀ミサを行っています。
それは、司祭になって間もないルーメルが行った最初の荘厳葬儀ミサであり、司祭として初めて説教をした場でもありました。
司祭として歩み始めた最初の時期が、そのまま原爆によって傷ついた人々に向き合う日々となったのです。
8月24日に日本語で書かれた「ルーメル日記」
被爆から約2週間後、ルーメルたちは警察の命令によって広島を離れ、中国山地の帝釈峡へ移動します。
1945年8月24日、ルーメルは帝釈峡で、原爆投下後に体験した出来事を日記に記しました。
その日記は、日本語の縦書き、旧仮名遣いで書かれています。
来日からまだ8年ほどしか経っていないドイツ人神父が、被爆直後の記憶を日本語で残していたのです。
日記には、原爆による死と破壊、被爆後も次々と亡くなっていく人々、家族を失った人たちのために行った葬儀ミサなどが記されています。
そして最後に、平安を願う祈りが書かれました。
日記に続くドイツ語の文章では、憎しみや苦しみ、死だけが世界のすべてではなく、その反対側には平和、喜び、調和があること、そのために生きることに価値があるという思いを記しています。
この日記は、ルーメルの死後、イエズス会から広島平和記念資料館へ寄贈されました。
現在は、被爆した外国人神父が残した記録の一つとして保存されています。
クラウス・ルーメル神父が広島での被爆体験を語る証言映像。動画提供:公益財団法人広島平和文化センター
子どものときから平和を育てる
ルーメルは、戦後も日本にとどまりました。
広島平和記念資料館は、ルーメルが戦後、戦争を拒み平和を求める意識は、大人になってから急につくられるものではなく、子どものころから育てる必要があると考え、平和教育に力を注いだことを紹介しています。
これは、ルーメルがモンテッソーリ教育に深く関わった理由を考えるうえでも重要な言葉です。
マリア・モンテッソーリもまた、平和は政治的な交渉だけでつくられるものではなく、子どもの教育から始まると考えていました。
子どもを一人の人格として尊重すること。
力によって従わせるのではなく、自ら成長する力を信頼すること。
自分と異なる人とともに生きる力を育てること。
被爆を経験したルーメルにとって、モンテッソーリ教育は単なる幼児教育の方法ではなく、平和な社会をつくるための教育でもあったのでしょう。
上智大学の教育者として
戦後、ルーメルはアメリカのデトロイト大学で学び、修士号を取得しました。
帰国後は、1957年から1987年まで上智大学文学部教授を務め、教育学を教えました。また、上智学院理事長を二度務め、大学運営にも長く関わっています。
教え子の一人である鈴木晶子氏は、ルーメルのゼミについて、少人数でドイツ語文献を意味の細部まで徹底的に読み解く、非常に厳しいものだったと振り返っています。
一方で、学生が既存の学問の枠を疑うような難しい研究テーマを選んでも、ルーメルはその挑戦を認め、背中を押したといいます。
文献は厳密に読む。
しかし、何を研究するかは本人の自由に委ねる。
その指導のあり方には、自由を放任と捉えず、自ら考えるための準備と規律を大切にする教育者としての姿が見えてきます。
戦後、日本で再び始まったモンテッソーリ教育
日本には、大正時代からモンテッソーリ教育が紹介されていました。
しかし、戦争へ向かう社会のなかで関心は次第に薄れ、実践の継続も難しくなっていきます。
戦後、日本でモンテッソーリ教育が本格的に動き始めるのは、1960年代に入ってからでした。
その再出発に大きな役割を果たしたのが、鼓常良、赤羽惠子、ペトロ・ハイドリッヒ、そしてクラウス・ルーメルたちです。
1965年、上智大学教授のペトロ・ハイドリッヒ神父らによって、東京都足立区に「うめだ・子供の家」が開設されました。
そこで中心的に実践を担ったのが、ドイツ・ケルンでモンテッソーリ教育を学び、戦後の日本人として初めてディプロマを取得した赤羽惠子でした。
赤羽は子どものいる現場でモンテッソーリ教育を実践し、教師たちに具体的な方法を伝えました。
一方、ルーメルは上智大学の教育学者として、海外の研究者と日本の実践者を結び、活動を継続できる組織や教師養成の基盤を整えていきます。
日本におけるモンテッソーリ教育の再興は、一人の功績ではありません。
海外で学んだ人、子どもの家で実践した人、理論を研究した人、大学や教会という組織を動かした人。それぞれの働きが重なって、ようやく再び動き始めたものでした。
日本モンテッソーリ協会をつくった一人
1967年8月、「日本モンテッソーリ協会」の設立準備会が発足します。
発起人には、鼓常良、平塚益徳、クラウス・ルーメル、ペトロ・ハイドリッヒ、菊野正隆、神藤克彦らの名前がありました。
翌1968年、日本モンテッソーリ協会が正式に発足します。
初代会長に就任したのは、戦後のモンテッソーリ教育の再興を支えた鼓常良でした。ルーメルは理事・副会長として協会の運営に携わります。
そして1970年代後半、第3代会長に就任。2007年まで、およそ30年にわたって会長・理事長を務めました。
ルーメルが一人で協会を創設したわけではありません。
しかし、設立準備の段階から加わり、その後、協会を長期にわたって率いたことを考えると、日本モンテッソーリ協会の歴史を語るうえで欠かすことのできない人物です。
日本で最初の教員養成コースへ
子どもの家を増やすためには、教具や環境を用意するだけでは足りません。
子どもの発達を理解し、観察し、必要な援助を判断できる教師を育てる必要があります。
そこで1970年、日本モンテッソーリ協会が承認する国内最初の教員養成コースとして、「上智モンテッソーリ教員養成コース」が始まりました。
理論科目は上智大学で、実践科目はうめだ「子供の家」で行われました。
うめだ「子供の家」の記録には、設立時の体制として、
委員長 クラウス・ルーメル
主任 赤羽惠子
と記されています。
ルーメルが教育学と組織運営を担い、赤羽が子どもの家で培った実践を伝える。さらに、ドイツをはじめとする海外の研究者も、講師や試験官として協力しました。
こうして、海外へ行かなければ体系的に学ぶことが難しかったモンテッソーリ教育を、日本国内で学べる道がつくられていきました。
上智大学で始まった教員養成コースは、その後、東京モンテッソーリ教育研究所付属教員養成コースへと受け継がれています。
現在、日本各地で活動している教師の背後には、このコースで学んだ教師、その教師から学んだ次の世代がいます。
ルーメルが残したものは、一つの学校や一冊の本だけではありません。教師から教師へと続く、長い養成の流れでもあるのです。
なぜ、ルーメルは翻訳を続けたのか
クラウス・ルーメルの名前は、多くのモンテッソーリ書籍にも残されています。
代表的な仕事には、次のようなものがあります。
- E・M・スタンディング著『モンテソーリの発見―人間らしく育つ権利』監修
- 『モンテッソーリの教育法―基礎理論』共訳
- マリア・モンテッソーリ著『モンテッソーリ教育法 子ども―社会―世界』共訳
- マリア・モンテッソーリ著『児童期から思春期へ―モンテッソーリの一貫教育』共訳
- マリア・モンテッソーリ著『モンテッソーリ教育の実践理論―カリフォルニア・レクチュア』共訳
- レニルデ・モンテッソーリ著『国境のない教育者―モンテッソーリ教育』共訳
- 『モンテッソーリ教育用語事典』監修
また、自らも『モンテッソーリ教育の道』『モンテッソーリ教育の精神』などを著しています。
後期の翻訳では、ルーメルの教え子であり、ドイツでも教育学を学んだ江島正子との共訳が多く見られます。
翻訳は、外国語を日本語に置き換えるだけの仕事ではありません。
とりわけモンテッソーリ教育では、「敏感期」「正常化」「精神的胚子」「自己教育」といった独自の概念があります。一つの言葉をどのような日本語で表すかによって、読者が受け取る意味も変わります。
しかも当時は、現在のように海外の文献へ簡単にアクセスできる時代ではありませんでした。
どの本を日本へ紹介するのか。
どの言葉を、どのような日本語で伝えるのか。
そして、その理論を教師養成のなかでどう理解してもらうのか。
協会と教員養成コースの中心にいたルーメルの翻訳は、日本の教師がモンテッソーリ教育について考え、語り合うための「言葉」を整える仕事でもあったのでしょう。
幼児期だけにとどまらないモンテッソーリ教育
ルーメルが関わった本を見ると、幼児期の教具や活動だけに関心を向けていたのではないことが分かります。
『子ども―社会―世界』では、子どもの成長を社会や世界との関係から捉えています。
『児童期から思春期へ』では、6歳以降の児童期、思春期、さらに大学へと続く人間形成が扱われています。
『国境のない教育者』では、モンテッソーリ教育を一つの国や文化に閉じた教育法ではなく、国境を越えて人間と平和を考える教育として捉えています。
ルーメル自身も、ドイツに生まれ、日本へ渡り、広島で戦争を経験し、戦後は日本とドイツを結びながら生きた人でした。
その人生を考えると、彼がモンテッソーリ教育を幼児教育の技法だけでなく、人間の尊厳と平和につながる教育として受け止めていたことには、大きな意味があります。
なぜ「ルーメル賞」があるのか
日本モンテッソーリ協会には、現在も「ルーメル賞」があります。
正式には「ルーメル・モンテッソーリ奨励基金」による表彰です。
この基金はルーメルの遺贈によって設けられ、その収益を用いて、モンテッソーリ教育の研究や実践を奨励することを目的としています。
第1回の2013年には、日本での実践と教師養成に大きな役割を果たした赤羽惠子、松本静子らが受賞しました。
ルーメルは、生前に協会を率いただけではありません。
自らが亡くなった後も、次の研究者や実践者を支える仕組みを残しました。
「ルーメル賞」という名称だけを見ると、一人の功労者を記念した賞のように思えます。しかし、その背景をたどると、教師を育て、研究を支え、次の世代へ手渡すことを大切にしてきた彼の仕事の延長にあることが分かります。
94歳で、その生涯を閉じる
クラウス・ルーメルは、2011年3月1日、東京都武蔵野市の武蔵野赤十字病院で亡くなりました。94歳でした。
1937年、20歳で来日してから74年。戦争と被爆を経験しながら日本にとどまり、カトリック司祭、教育学者、大学運営者として活動しました。
そのなかでも、日本モンテッソーリ協会の設立、教員養成コースの運営、書籍の翻訳と出版に長く関わり、戦後の日本にモンテッソーリ教育を根づかせるための基盤を支え続けました。
同年5月18日には、東京・四谷の聖イグナチオ教会で、上智学院主催の「お別れの会」が営まれました。
ミサには約300人が参列し、26人の司祭が共同司式を行いました。式では、ルーメルが二度にわたって上智学院理事長を務めたこと、日本とドイツの交流を支えたこと、教育に尽くしたことなどが振り返られました。
聖書朗読を務めたのは、ルーメルとともにモンテッソーリ書籍を翻訳してきた江島正子。代表者の挨拶には、松本静子の名前もありました。
その場にも、日本のモンテッソーリ教育をともにつくってきた人々のつながりが表れています。
故郷ドイツに生まれた「ルーメル通り」
2015年11月10日、ルーメルの故郷であるプルハイム市の市議会は、市内の一つの通りを「Klaus-Luhmer-Weg(クラウス・ルーメル通り)」と命名することを満場一致で決めました。
広島の被爆者として戦争の記憶を伝えたこと。
上智大学の教育者として長く日本で活動したこと。
日本とドイツ、ケルンと東京の交流に尽くしたこと。
そうした功績を、故郷の人々が記憶するためです。
20歳でドイツを離れ、その後の人生の大部分を日本で過ごしたルーメル。
日本では、モンテッソーリ教育の研究と実践を次の世代へつなぐ「ルーメル賞」に名前が残り、ドイツでは、日本とドイツを結んだ人物として一本の道に名前が残されました。
一冊の本から見えてきた一人の人生
モンテッソーリの本を手に取ったとき、私たちはどうしても、著者であるマリア・モンテッソーリの名前に目を向けます。
しかし、その思想が日本へ届くまでには、原典を探し、翻訳し、出版し、学ぶ場所をつくり、教師を育てた人たちがいました。
クラウス・ルーメルは、そのすべてに関わった稀有な人物でした。
ドイツから日本へ渡った青年。
広島で原爆を経験した司祭。
上智大学で教育に携わった教育学者。
日本モンテッソーリ協会を長く率いた会長。
教員養成の道をつくった運営者。
そして、モンテッソーリの言葉を日本へ届けた翻訳者。
書籍に記された「クラウス・ルーメル」という名前の後ろには、これほど大きな歴史がありました。
次にルーメルの名前が記された本を開くとき、その文章は、これまでとは少し違って見えるかもしれません。
クラウス・ルーメルの主な著書・翻訳書
クラウス・ルーメルは、自らモンテッソーリ教育について書くだけでなく、マリア・モンテッソーリらの著作を日本語へ翻訳し、その思想を日本に伝えてきました。ここでは、ルーメルが執筆・編集・監修・翻訳に携わった主な書籍を紹介します。
※現在は絶版または品切れとなっている書籍もあり、リンク先では中古本などが表示される場合があります。
参考資料
- 広島平和記念資料館「生きる―1945・8・6 その日からの私」
- 広島平和記念資料館・被爆者証言ビデオ「クラウス・ルーメル」
- 広島平和記念資料館「ルーメル日記」旧展示ページ
- ヒロシマ平和メディアセンター「ルーメル神父の日記」
- 中国新聞「被爆外国人神父『平安を』」
- 日本モンテッソーリ協会「協会(学会)の沿革」
- 日本モンテッソーリ協会「歴代会長」
- 日本モンテッソーリ協会「ルーメル賞について」
- うめだ「子供の家」園のあゆみ
- 東京モンテッソーリ教育研究所「ルーメル通りの誕生」
- 上智大学「第4回 あの人に会いたい」
- 上智大学ソフィア会「クラウス・ルーメル先生お別れの会」
- 鈴木晶子氏「Doktorvater ルーメル師の導き――沈黙の奥にある祈りと光」
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