日本にモンテッソーリ教育を伝えたのは誰だったのか? ― 赤羽惠子と松本静子、二人の歩みからたどる114年の歴史

2026年、日本のモンテッソーリ教育に大きな足跡を残した二人の先駆者が、相次いで旅立ちました。
4月22日、日本人として初めてAMI(国際モンテッソーリ協会)の教師養成トレーナーとして公認された松本静子先生が100歳で逝去されました。
その約1か月後の5月29日、日本人として初めてモンテッソーリ教師のディプロマを取得した赤羽惠子先生が95歳で逝去されました。
松本先生の訃報は東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンターから、赤羽先生の訃報は京都モンテッソーリ教師養成コース・深草こどもの家から伝えられています。
戦後の日本でモンテッソーリ教育を根づかせ、次の教師たちを育ててきた二人が、同じ2026年に亡くなったことになります。
二人の歩みを振り返っていると、一つの疑問が浮かびます。
そもそも、日本にモンテッソーリ教育を伝えたのは誰だったのでしょうか。
赤羽先生でしょうか。
松本先生でしょうか。
調べてみると、その歴史は二人よりもずっと前、明治時代の終わりまで遡ります。
日本にモンテッソーリが届いたのは1912年
マリア・モンテッソーリがローマのサン・ロレンツォ地区に最初の「子どもの家」を開設したのは1907年。
そのわずか5年後、1912(明治45)年1月11日、日本の日刊紙『萬朝報』第6633号1面に「モンテッソリ教育」と題する記事が掲載されました。日本モンテッソーリ協会も、この時期を日本へのモンテッソーリ教育紹介の始まりとして記録しています。
同じ1912年には、倉橋惣三もモンテッソーリ教育について論じています。倉橋の「モンテッソリの教育」は同年3月に『心理研究』第3号へ掲載され、4月には『婦人と子ども』第12巻第4号にも転載されました。
つまり、
「戦後、誰か一人がヨーロッパからモンテッソーリ教育を持ち帰ったところから、日本の歴史が始まった」
というわけではありません。
ローマに「子どもの家」が誕生して間もない時期から、その新しい教育思想はすでに日本へ届いていたのです。
※この時期については、日本モンテッソーリ協会『50年のあゆみ』、倉橋惣三の1912年の論考、戦前期のモンテッソーリ受容史研究などを参照しています。
戦前に広がった関心と、その後
大正期には、河野清丸をはじめ複数の教育者がモンテッソーリ教育を紹介し、研究しました。
しかし、その関心がそのまま戦後まで強く受け継がれたわけではありません。日本モンテッソーリ協会は、自由を基礎とする児童中心の考え方や国際平和を重視するモンテッソーリの思想が、軍国主義へ向かう社会の中で次第に影響力を失っていったと説明しています。
そのため戦後には、あらためて海外の実践や教師養成からモンテッソーリ教育を学び直す動きが生まれていきます。
戦後の再出発を支えた、鼓常良・馨夫妻
戦後、日本でモンテッソーリ教育が再び動き始める過程で、欠かすことのできない人物がいます。
ドイツ文学者の鼓常良(つづみ・つねよし)と、妻の馨(かおる)です。
二人の娘・川村洋子さんが日本モンテッソーリ協会『50年のあゆみ』に寄せた「草創期の子どもの家」によれば、夫妻は1950年に名古屋から京都・桂へ転居しました。
馨さんはクリスチャンで、桂の教会に所属していました。1953年、その教会の牧師から建設途中の保育所について相談を受け、夫妻がその施設を引き受けたことが、後の月見ヶ丘子どもの家の始まりとなります。
幼児教育の施設を運営することになった常良先生は、自分にも幼児教育についての知識が必要だと考えました。そこで馴染みの書店に、当時ヨーロッパで注目されている幼児教育の本を探してほしいと依頼します。
その探究の先にあったのが、モンテッソーリ教育でした。
常良先生はモンテッソーリの著作を翻訳し、自らも『生活教育法(モンテッソーリ教育実践の秘訣)』を著します。1962年には京都・桂に幼児教育研究所を設立。その附属「月見ヶ丘子どもの家」でモンテッソーリ教育の実践に取り組みました。日本モンテッソーリ協会は、ここを「敗戦後最初」のモンテッソーリ教育実践として位置づけています。
なお、夫妻の娘・川村洋子さんは、後に梶山モンテッソーリスクールの初代園長となり、さらに松本静子先生が開設した東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンターの第1期生として学んでいます。
そして、この月見ヶ丘子どもの家に、もう一つの道がつながります。
ドイツでモンテッソーリ教育を学んだ赤羽惠子先生です。
※鼓夫妻と月見ヶ丘子どもの家の経緯は、二人の娘・川村洋子さんによる「草創期の子どもの家」(日本モンテッソーリ協会『50年のあゆみ』)を中心に、日本モンテッソーリ協会の公式記録などを参照しています。
赤羽惠子先生――ドイツでモンテッソーリ教育と出会う
赤羽惠子先生がどのようにモンテッソーリ教育と出会ったのかについては、本人が1993年に書いた回想が残されています。2026年6月、その文章が京都モンテッソーリ教師養成コース・深草こどもの家によって公開されました。
赤羽先生は1959年にヨーロッパへ留学します。
その時点で、モンテッソーリ教師になることを目的としていたわけではありませんでした。
ヨーロッパ滞在中、ドイツのモンテッソーリ教育を牽引していたヘレーネ・ヘルミングと出会い、その勧めを受けてケルンでモンテッソーリ教育を学ぶようになります。
そして1963年、ドイツでモンテッソーリ教師のディプロマを取得しました。日本モンテッソーリ協会は、赤羽先生を「日本人初のディプロマ取得者」と位置づけています。
帰国後、赤羽先生は鼓夫妻が運営していた京都の月見ヶ丘子どもの家で実践に携わります。
戦後日本でモンテッソーリ教育を研究し、実践する場所をつくった鼓夫妻と、海外で専門的に学んで帰国した赤羽先生。ここで二つの流れが交わりました。
その経験は、やがて東京・足立区のうめだ「子供の家」での実践へとつながっていきます。うめだ「子供の家」は1965年、上智大学付属の保育園として開園しました。
その後、1973年に京都モンテッソーリ教師養成コースを創設。1979年には深草こどもの家を開設し、長年にわたり子どもたちと教師を育てました。
※この節は、赤羽惠子本人による1993年の回想、深草こどもの家公式記録、日本モンテッソーリ協会の記録に基づいています。
もう一人の重要な先駆者、松本尚子先生
同じ時代、もう一人の重要な女性が海外でモンテッソーリ教育を学んでいました。
松本尚子先生です。
松本静子先生とは同姓ですが、血縁関係はありません。
横浜国立大学の研究によれば、松本尚子先生は1963年、日本人として初めてイタリア・ペルージャの国際モンテッソーリコースへ入学し、その後3~6歳と6~12歳の国際ディプロマを取得しました。
1967年3月に帰国し、同年10月には東京都杉並区善福寺に「善福寺子供の家」を開設しています。
戦後日本では、ドイツで学んだ赤羽先生と、イタリアで学んだ松本尚子先生らが、それぞれ異なるルートからモンテッソーリ教育を持ち帰っていたのです。
そしてそこに、もう一人の松本先生が加わります。
松本静子先生――日本人初のAMIトレーナーへ
松本静子先生はイタリアでモンテッソーリ教育を学びました。
東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンターの公式プロフィールによれば、1970年にペルージャで3~6歳、1973年にローマで0~3歳、1974年にベルガモで6~12歳のディプロマを取得しています。
その後、1975年にアメリカ・ロサンゼルスで、教師を育成するトレーナーとなるための準備を進めました。
そして同年、日本人として初めてAMIの教師養成トレーナーとして公認されます。日本モンテッソーリ協会も、この事実を公式記録の中で明記しています。
1975年10月19日、松本先生は東京・四谷に東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンターを開設しました。
その後、センターは神奈川県相模原市南区へ移転し、日本国内でAMIの国際基準に基づく教師養成を続けてきました。
モンテッソーリ教育を海外から学ぶ時代から、
日本で実践する時代へ。
そして、日本国内で次の教師を国際基準で育てる時代へ。
松本先生は、その大きな転換点を担った人物でした。
※この節は、東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンター公式プロフィール、日本モンテッソーリ協会の記録に基づいています。
三人の道が「教師養成」で交わった
そして、今回歴史を調べる中で特に興味深かったのがここです。
赤羽惠子先生。
松本尚子先生。
松本静子先生。
それぞれ異なる道を歩いてきた三人が、日本でモンテッソーリ教師を育てるという一つの仕事で交わっています。
1968年3月、日本モンテッソーリ協会が発足しました。初代会長に就任したのは、戦後のモンテッソーリ教育再興を支えた鼓常良先生でした。
その後、モンテッソーリ教育を実践できる教師を日本国内で養成する必要性が高まり、1969年12月1日、上智大学で「モンテッソーリ教員養成コース設置趣意書」が発表されます。
その趣意書には、クラウス・ルーメル、平野智美らとともに、
松本尚子
松本静子
赤羽恵子
三人の名前が記されています。
そして1970年4月20日、日本で最初のモンテッソーリ教員養成コースとして「上智モンテッソーリ教員養成コース」が始まりました。
理論の授業は上智大学四谷校舎旧2号館、実践は東京都足立区梅田の上智大学付属保育所うめだ「子供の家」で行われています。
戦後の再興を支えた鼓常良先生。
ドイツで学んだ赤羽先生。
イタリアで学んだ松本尚子先生。
そして後に日本人初のAMIトレーナーとなる松本静子先生。
戦後日本のモンテッソーリ教育は、一人の人物によってつくられたのではありませんでした。
さまざまな場所で学び、実践してきた人たちの道が交わりながら、少しずつ形づくられていったのです。
※設置趣意書とコース開始の経緯は、日本モンテッソーリ協会『50年のあゆみ』に記録されています。
教師養成は、さらに複数の流れへ
1970年代になると、日本でモンテッソーリ教育を学ぶ場はさらに広がっていきます。
1975年、松本静子先生は日本人初のAMIトレーナーとして、東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンターを開設しました。
その翌年の1976年、日本モンテッソーリ協会でも「教師養成センター」が発足し、通信教育による教師養成が始まります。
1977年には平塚益徳の提唱により「日本モンテッソーリ教育研究会」が発足してこれを継承し、1979年には日本モンテッソーリ教育綜合研究所へと名称を改めました。
そして1985年、同研究所は、学習研究社(現在の学研グループ)が出捐して設立した才能開発教育研究財団の幼児教育部門となります。
ここで学研が果たした役割も、日本のモンテッソーリ教育の広がりを考えるうえで見落とせません。
AMIが国際的な基準を守りながら専門的な教師養成を担ってきた一方、学研につながるこの流れは、教師養成に加えて、出版や教材・教具、幼児教育という幅広いネットワークを通して、モンテッソーリ教育をより多くの教育現場や家庭へ届けていきました。
日本モンテッソーリ教育綜合研究所は、これまでに5,000名を超える専門人材を輩出しています。日本でモンテッソーリ教育が一部の専門家だけのものにとどまらず、広く知られていく過程で、学研グループが果たしてきた普及の役割も大きかったといえるでしょう。
こうして日本のモンテッソーリ教育は、一つの組織や一つの系譜だけではなく、それぞれ異なる役割をもった複数の流れによって広がっていったのです。
※日本モンテッソーリ教育綜合研究所および学研グループの沿革・活動については、同研究所、才能開発教育研究財団、学研グループの公式記録を参照しています。
では、「日本にモンテッソーリを伝えた人」は誰だったのか
ここまで辿ると、最初の問いへの答えが見えてきます。
「日本にモンテッソーリ教育を伝えた人」を、一人だけ挙げることはできません。
1912年には、すでに日本でモンテッソーリ教育が紹介されていました。
大正期には日本の教育者たちが研究し、論じていました。
戦後には、鼓夫妻のように研究し、実践する場所をつくった人がいました。
そして海外へ渡り、実際にモンテッソーリ教育を学んで帰ってきた人々がいました。
さらに、実践する人だけでなく、次の教師を育てる人たちが生まれました。
そして、出版や教材を通して、より広い社会へ届ける人たちも現れました。
「最初に紹介した人」
「研究した人」
「実践する場所をつくった人」
「海外で学んだ人」
「教師を育てた人」
「より広く社会へ届けた人」
それぞれが違う役割を担っています。
だから、「誰が最初だったのか」を一人に決めるよりも、そのバトンがどのように人から人へ渡され、そして社会へ広がっていったのかを見る方が、日本のモンテッソーリ教育の歴史をより正確に表しているのかもしれません。
2013年、二人の名前が同じ場所に並んだ
それから長い年月が流れた2013年。
日本モンテッソーリ協会は、モンテッソーリ教育の研究・実践・普及に貢献した人物を顕彰する「ルーメル賞」を創設しました。
その第1回受賞者に選ばれたのは、
赤羽惠子先生。
松本静子先生。
森愛先生。
の三人でした。
協会は赤羽先生について、日本人初のディプロマ取得者として日本での実践と教師養成に貢献したことを紹介しています。
松本先生については、日本人初のAMIトレーナーとなり、東京モンテッソーリ教師トレーニングセンターを設立した功績を紹介しています。
二人が個人的にどのような関係であったのかを、想像で補う必要はないでしょう。
1960年代から70年代、日本のモンテッソーリ教師養成が始まった時代に二人の名前があり、長い年月を経た2013年、第1回ルーメル賞の受賞者として再び二人の名前が並んだ。
その事実だけでも、日本のモンテッソーリ教育に二人が残したものの大きさを感じます。
2026年、二人が残したもの
2026年3月8日。
東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンターでは、第51回卒業式が行われました。
そこには松本静子先生の姿がありました。
同窓会の公式記録には、松本先生が卒業式に列席し、新しく巣立つ卒業生たちへスピーチをしたことが記されています。
その約1か月半後の4月22日、松本静子先生は100歳で逝去されました。
そして5月29日、赤羽惠子先生も95歳で逝去されました。
赤羽先生が1973年に創設した京都モンテッソーリ教師養成コースは、今も教師を育てています。
松本先生が1975年に開設した東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンターも、今もAMI教師を育て続けています。
二人が残したものは、建物や教具だけではありません。
そこで学んだ教師たちです。
そして、その教師たちが出会ってきた子どもたちです。
1912年、日本へ届いたモンテッソーリ教育。
戦前に広がったその思想は、時代の中で一度大きく影響力を失いました。
それでも、もう一度学ぼうとした人がいました。
実践する場所をつくった人がいました。
海外へ学びに行った人がいました。
教師を育てた人がいました。
そして、その教師がまた次の教師を育てました。
114年という時間をかけて、そのバトンは人から人へと渡されてきました。
2026年。
日本のモンテッソーリ教育を長く支えた二人の先駆者が、相次いで旅立ちました。
けれども、そのバトンは途切れていません。
今、子どもの前に立っている教師たちが、その続きをつくっています。
参考資料
・日本モンテッソーリ協会(学会)「歴史」
・日本モンテッソーリ協会(学会)『50年のあゆみ』
・日本モンテッソーリ協会(学会)「ルーメル賞 受賞者」
・京都モンテッソーリ教師養成コース・深草こどもの家「赤羽惠子が語る『モンテッソーリ教育との出会い』」
・京都モンテッソーリ教師養成コース
・東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンター
・日本モンテッソーリ教育綜合研究所「研究所について」
・学研グループ「日本モンテッソーリ教育綜合研究所」
・梶山モンテッソーリスクール「当園について」
・うめだ「子供の家」公式サイト
・松本静子「私とモンテッソーリ教育の出会いを語る」『モンテッソーリ教育』第44号、2011年、13–24頁
・川村洋子「草創期の子どもの家」日本モンテッソーリ協会『50年のあゆみ』
・横浜国立大学教育学会研究論集掲載、日本におけるモンテッソーリ教育受容史に関する研究
・倉橋惣三「モンテッソリの教育」『心理研究』第3号、1912年/『婦人と子ども』第12巻第4号、1912年
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