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評価する大人から、気づきを支える大人へ ― モンテッソーリは「すごいね!」と言っちゃダメ?

子どもが自分で靴を履いたとき。
食事の準備を手伝ってくれたとき。
泣いている友達にティッシュを持っていったとき。

私たちは、つい反射的に言います。

「すごいね!」
「上手だね!」
「偉いね!」

子どもを認めたい。喜ばせたい。自信を持ってほしい。

もちろん、それは大人の温かな気持ちから出てくる言葉です。

ところが、モンテッソーリ教育について調べると、「子どもを褒めてはいけない」と説明されていることがあります。

では、「すごいね」と言ってはいけないのでしょうか。

そうではありません。

モンテッソーリ教育が大切にしているのは、褒め言葉を禁止することではなく、大人がいつも子どもの行動を採点する人にならないことです。

「すごいね」が、行動の目的を変えることがある

子どもは本来、自分の中から生まれた興味によって動きます。

自分でやってみたい。
できるようになりたい。
誰かと一緒に暮らすことに参加したい。

活動そのものの中に、子どもの喜びがあります。

ところが、何かをするたびに、

「すごいね」
「上手だね」
「偉いね」

と評価され続けると、子どもの関心が少しずつ変わっていくことがあります。

「私は何をしたいのか」ではなく、

「大人はどう思うだろう」
「褒めてもらえるだろうか」

ということが気になり始めるのです。

AMI(国際モンテッソーリ協会)の子育て支援サイト「Aid to Life」も、子どもを励ましたり、喜びを伝えたりすることを否定していません。

避けたいのは、子どもが何をしたのかをよく見ないまま、何でも「すごい」「偉い」と評価することです。

「偉い子」と評価せず、したことに目を向ける

子どもが家族の分のお皿を並べてくれたとします。

「お手伝いできて偉いね」

という言葉は、一見すると温かな言葉です。

しかし、「大人がしてほしいことをしたから、あなたを良い子と評価します」という意味にもなり得ます。

このような場面では、評価する代わりに、子どもが実際にしたことへ目を向けます。

「お皿を並べてくれたんだね」
「みんなの分がそろったね」
「準備してくれて、ありがとう」
「すぐに食事を始められるね」

ここで伝えているのは、「あなたは偉い子」という大人の判定ではありません。

自分がしたことによって、家族の食事の準備が整ったという事実です。

子どもは、大人から高い点数をもらったから満足するのではなく、自分も一緒に暮らす人たちの役に立てたことに気づきます。

行動が誰かに与えた影響を伝える

泣いている友達に、子どもがティッシュを持っていきました。

そんな姿を見ると、

「優しいね」
「偉かったね」

と言いたくなります。

けれども、「あなたは優しい子」と人物を評価する代わりに、その行動が相手にどのような影響を与えたのかを伝えることもできます。

「ティッシュを渡したら、少し泣きやんだね」
「そばにいてくれたから、安心したのかもしれないね」

子どもの注意を、大人の評価ではなく、もう一度友達へ向けるのです。

思いやりは、「優しい子だと褒められるため」に示すものではありません。

自分のしたことによって、相手の表情が変わった。
安心したように見えた。
少し元気になった。

その経験が、子どもの内側に残ります。

自分でできたとき、すぐに評価しなくてもよい

時間をかけて、子どもが自分でコートを着られたとします。

大人はすぐに、

「すごい!」
「上手に着られたね!」

と言いたくなります。

けれども、子どもは大人に褒められなくても、すでに自分で「できた」と感じているかもしれません。

自分の手元を見つめたり、少し微笑んだり、もう一度やってみようとしたりすることもあります。

そんなときは、すぐに言葉を重ねず、その様子を見守ることもできます。

子どもがこちらを見たり、「できた」と伝えてきたりしたら、

「自分で着たんだね」
「何度も袖を探していたね」
「最後までやったんだね」

と、見ていた事実を返せます。

あるいは、ただ目を合わせて微笑むだけで十分なこともあります。

子どもの中に生まれた満足を、大人の評価で上書きしないためです。

感謝することは、評価することとは違う

子どもを褒めないために、大人は喜びも感謝も表してはいけないのでしょうか。

もちろん、そんなことはありません。

「ありがとう」
「助かったよ」
「一緒にできて嬉しかった」

これらは、子どもを採点する言葉ではありません。

子どもの行動を受け取った人が、自分の気持ちを伝える言葉です。

「お手伝いできて偉いね」ではなく、
「運んでくれて、ありがとう」

「片づけられてすごいね」ではなく、
「道具が元の場所に戻ったね。次の人も使えるね」

大人が感じた喜びや感謝は、率直に伝えてよいのです。

ただし、それを子どもを動かすためのご褒美にしないことが大切です。

「すごいね」を別の決まり文句に変えるだけではない

それでは今日から、「すごいね」を「頑張ったね」に言い換えればよいのでしょうか。

そう単純ではありません。

「頑張ったね」
「工夫したね」
「最後までできたね」

これらの言葉も、子どもの姿をよく見ずに毎回使えば、新しい“口先だけの褒め言葉”になります。

本当はそれほど頑張っていなかったかもしれません。
最後までやるつもりではなかったかもしれません。
途中でやめたことに、子どもなりの理由があったかもしれません。

モンテッソーリの出発点は、正しいフレーズを覚えることではなく、子どもを観察することです。

何をしようとしているのか。
どこに時間をかけているのか。
何に困っているのか。
できたあと、どんな表情をしているのか。
大人の言葉を求めているのか。
それとも、自分で満足しているのか。

その子をよく見て初めて、必要な言葉が見えてきます。

研究が示しているのも「褒めるな」ではない

幼児期の褒め方については、家庭で交わされた親子の会話を観察した研究もあります。

2013年に発表された研究では、1歳から3歳までの子どもに対する親の言葉を調べ、能力や人物を評価する褒め方と、努力や方法、取り組み方に触れる褒め方が、その後の挑戦に対する考え方とどのように関連するかが検討されました。

さらに2018年には、同じ子どもたちのうち53人を追跡し、幼児期の声かけと、小学生になってからの考え方や成績との関連が報告されています。

ただし、これらは家庭で自然に交わされた会話を調べた観察研究です。

「この言葉を使えば成績が上がる」
「『すごいね』と言うと子どもが伸びなくなる」

といった因果関係を証明したものではありません。

研究を、新しい言葉かけのマニュアルにする必要はないでしょう。

大切なのは、どの言葉が正解かを探すことよりも、その言葉によって子どもの注意がどこへ向かうのかを見ることです。

「すごいね」を禁止する必要はない

本当に驚いたとき。
一緒に喜びたいとき。
子どもの姿に心を動かされたとき。

思わず「すごいね」と言葉が出ることはあります。

その自然な気持ちまで抑える必要はありません。

「すごいね」と一度言ったことで、子どもの内発的な意欲が失われるわけでもありません。

問題になるとすれば、子どもが何かをするたびに、大人が自動的に評価を与え続けることです。

そして子どもが、自分の満足よりも大人の反応を確かめるようになっているのに、それに気づかないことです。

評価する大人から、気づきを支える大人へ

モンテッソーリ教育が目指しているのは、「褒めない子育て」ではありません。

子どもが、自分のしたことに自分で気づけるように支えることです。

事実を伝える。
感謝する。
行動が相手に与えた影響を知らせる。
子ども自身の感じ方を待つ。
ときには、何も言わずに見守る。

大人がいつも評価を下さなくても、子どもは自分の行動から多くのことを受け取っています。

自分でできた。
誰かの役に立った。
相手の表情が変わった。
一緒に暮らす場所が整った。

その現実が、子ども自身に返ってくるようにするのです。

「すごいね」と言ってよいかどうかだけを気にするよりも、その言葉のあと、子どもの目がどこへ向かうのかを見てみる。

大人の顔を見るのか。
それとも、自分の手や、自分がしたこと、目の前の相手を見るのか。

評価する大人から、気づきを支える大人へ。

必要なのは、言葉を禁止することではなく、大人の立つ位置を少し変えることなのだと思います。

参考資料

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