え? 大正時代にマリア・モンテッソーリ本人から直接学んだ女性が日本にいた? – ベラ・アルウィンの生涯

ベラ・アルウィン(当時の写真をもとにAIで描き起こしたイメージイラスト)
赤羽惠子、松本尚子、松本静子――。
戦後、日本にモンテッソーリ教育を根づかせていった人々の名前をたどっていくと、その歩みは1950年代から60年代へとつながっていきます。
しかし、そのおよそ半世紀前。
まだモンテッソーリ教育が世界へ広がり始めたばかりの1914年、ローマでマリア・モンテッソーリ本人から直接、その教育法を学んでいた、日本に生まれ育った一人の女性がいました。
ソフィア・アラベラ・アルウィン。
日本では「ベラ・アルウィン」の名で知られる教育者です。
現在確認できる資料の範囲では、のちに日本国籍を取得した日本人教育者のなかで、マリア・モンテッソーリ本人が行った国際教師養成コースに参加し、直接その教育法を学んだ人物として知られているのが、ベラ・アルウィンです。
ところが、日本のモンテッソーリ教育の歴史をたどっていても、その名前が大きく登場することはあまりありません。
なぜなのでしょうか。
その理由をたどっていくと、モンテッソーリ教育だけでは語ることのできない、一人の教育者の人生が見えてきます。
日本人の母と、ハワイ王国公使の父のもとに生まれる
ベラ・アルウィン、本名 Sophia Arabella Irwin は、1883年、東京に生まれました。
父はハワイ王国の駐日公使を務めたロバート・ウォーカー・アルウィン。母は日本人の武智イキです。
学校法人アルウィン学園も、ベラについて「日本に生まれ育ちました」と紹介しています。
幼少期を日本で過ごしたベラは、10代になると父の故郷アメリカへ渡り、フィラデルフィアで教育を受けます。
その後日本へ戻ると、茶の湯、華道、箏曲、書道、日本画、日本文学など、日本文化についても改めて学んでいきました。
アメリカと日本。
西洋と東洋。
二つの文化の間を行き来しながら育ったことは、のちのベラの教育観にも少なからず影響を与えたと考えられます。
伊香保で出会った子どもたち
ベラが幼児教育の道へ進む原点の一つとされているのが、群馬県・伊香保での経験です。
アルウィン家は伊香保に別荘を持っていました。
そこでベラは地域の子どもたちと親しくなり、やがて子どもたちのための日曜学校を開くようになります。
子どもと一緒に過ごすこと。
子どもの話を聞くこと。
子どもが成長していく姿を見ること。
そうした経験のなかで、ベラは幼い子どもたちの教育に生涯を捧げる道へと向かっていきます。
後年、アルウィン学園がベラについて残した言葉にも、その姿勢はよく表れています。
「こどもと一緒にいる幸せ」
この思いは、彼女の教育者としての生涯を貫いていくことになります。
幼児教育を学ぶため、再び欧米へ
20代になったベラは、幼児教育を専門的に学ぶため、再び海外へ向かいます。
アメリカで幼児教育を学び、その後ヨーロッパへ。
当時の幼児教育で圧倒的な影響力を持っていたのが、ドイツの教育者フリードリヒ・フレーベルでした。
ベラはドイツでも学び、フレーベルの教育思想や「恩物」を研究します。
しかし、彼女が関心を寄せたのはフレーベルだけではありませんでした。
20世紀初頭のヨーロッパで、もう一つの新しい幼児教育が急速に注目を集めていました。
イタリアの医師、マリア・モンテッソーリによる教育法です。
1910年、マリア・モンテッソーリとの出会い
1910年、ベラはローマで開催された世界日曜学校大会に参加しています。
研究資料では、この時期にベラがマリア・モンテッソーリと出会い、その新しい教育法に強い関心を持ったことが伝えられています。
1907年、ローマのサン・ロレンツォ地区に最初の「子どもの家」が誕生してから、まだわずか3年。
モンテッソーリ教育は、まさに世界へ向かって広がり始めたところでした。
そして4年後。
ベラは、再びローマへ向かいます。
1914年、マリア・モンテッソーリ本人から直接学ぶ

1914年、ローマのCastel Sant’Angeloで行われた第2回国際モンテッソーリ教師養成コース。中央のマリア・モンテッソーリを受講生たちが囲んでいます。出典:Archivio ONM
1914年。
ローマでは、マリア・モンテッソーリによる第2回国際モンテッソーリ教師養成コースが開催されました。
そこに参加していたのが、ベラ・アルウィンです。
研究資料によれば、ベラは1914年2月から6月末までローマに滞在し、マリア・モンテッソーリ本人から、その教育法と感覚教育の理論・実践を直接学びました。
海外のモンテッソーリ史料にも、ベラが1914年の第2回国際コースに参加し、コース修了証を取得したことが記録されています。
この時代を考えると、その意味は決して小さくありません。
日本でモンテッソーリ教育が新聞に紹介されたのは1912年。
倉橋惣三、野上俊夫、河野清丸らが相次いでモンテッソーリ教育を紹介し、河野清丸は1914年に『モンテッソーリ法と其応用』を出版しています。
つまり日本でも、モンテッソーリという名前が知られ始めていました。
しかしベラは、本や論文を通して知っただけではありません。
ローマまで行き、マリア・モンテッソーリ本人の講義を受け、その教育を直接学んだのです。
戦後、赤羽惠子らがヨーロッパでモンテッソーリ教育を学び、日本に持ち帰るよりも、およそ半世紀近く前のことでした。
1916年、日本に自分の教育の場をつくる
ローマで学んだベラは、日本へ戻ります。
しかし彼女がヨーロッパから持ち帰ったものは、モンテッソーリ教育だけではありませんでした。
フレーベル。
モンテッソーリ。
アメリカで学んだ幼児教育。
キリスト教的人間観。
そして、日本で育った自らの経験。
ベラは、それらを自分自身の教育の中に取り込んでいきます。
1916年2月、東京・麹町。
ベラは私財を投じ、私立玉成保姆養成所と玉成幼稚園を設立しました。
最初の学生は11名。
園児は10名。
ベラは初代所長、そして園長となります。
彼女が大切にしたのは、 「最良の教育は最良の教師にあり」 という考えでした。
幼稚園だけをつくるのではなく、同時に保育者を育てる学校をつくったところに、ベラ・アルウィンという教育者の特徴があります。
では、なぜ日本最初の「モンテッソーリ園」にはならなかったのか
ここで、一つの大きな疑問が生まれます。
マリア・モンテッソーリ本人から直接学び、国際教師養成コースまで受講したのであれば、なぜベラは帰国後、日本で本格的なモンテッソーリ学校をつくらなかったのでしょうか。
この問いは、ベラ・アルウィンだけでなく、大正期の日本におけるモンテッソーリ教育そのものを考えるうえでも重要です。
日本ではすでにフレーベルが幼児教育の中心だった
当時の日本の幼稚園教育には、すでにフレーベルの教育思想が深く浸透していました。
「幼稚園教育」と「フレーベル」が強く結びついていた時代です。
一方、1912年頃から日本で急速に注目されたモンテッソーリ教育は、自発性、自由、個性の尊重、教師の役割、観察による科学的教育、そして独自の教具などによって、多くの教育者の関心を集めました。
講演会や研究会も開かれ、教具を自作して実践する教育者まで現れます。
しかし、この最初の熱気は長くは続きませんでした。
一度注目されながら、日本には根付かなかったモンテッソーリ教育
日本モンテッソーリ協会の歴史では、大正期をモンテッソーリ教育の「受容と挫折」の時代として整理しています。
なぜ定着しなかったのか。
一つの理由だけで説明することはできません。
当時の幼児教育にフレーベルが深く定着していたこと。
モンテッソーリ教具の導入に費用がかかったこと。
モンテッソーリ教育を継続的に研究・実践し、組織として育てていく中心的な存在がまだいなかったこと。
さらに日本モンテッソーリ協会は、その後の日本社会が軍国主義へと傾いていくなかで、自由や子どもの自発性を重視し、国際平和を訴えるモンテッソーリの思想が時代の風潮と合わなくなっていったことも指摘しています。
1910年代に一度大きく開きかけたモンテッソーリ教育への扉は、その後しだいに閉じていきました。
日本で本格的なモンテッソーリ教育の実践が再び動き始めるまでには、戦後を待たなければなりませんでした。
ベラはモンテッソーリ教育を捨てたわけではなかった
では、ベラ自身はどうだったのでしょうか。
彼女もまた、モンテッソーリ教育だけを唯一の方法として選んだわけではありませんでした。
しかし、だからといって、ローマで学んだモンテッソーリ教育が消えてしまったわけでもありません。
玉成幼稚園では、フレーベルの恩物とともに、モンテッソーリ教具も子どもたちの活動に取り入れられていました。
研究では、登園後の自由な活動などにおいて、子ども一人ひとりに合わせ、フレーベルの恩物、モンテッソーリ教具、描画などが選ばれていたことが報告されています。
また、ベラはモンテッソーリの感覚教育を評価し、数、言語、環境に関する教育にも関心を向けていました。
つまりベラは、モンテッソーリ教育を「そのまま日本へ移す」ことを選ばなかったのです。
世界で学んださまざまな教育を、自分が目の前の子どもたちに必要だと考える教育へと組み直していった。
そこに、ベラ・アルウィン独自の教育が生まれていきます。
「根付かなかった」だけでは終わらない
モンテッソーリ教育の歴史だけを切り取れば、1910年代に日本で起こった最初の受容は、そのまま大きな運動として定着することはありませんでした。
そしてベラ・アルウィンも、後年の赤羽惠子らのように、モンテッソーリ教育そのものを日本に普及させることを生涯の中心には置きませんでした。
そのため、日本のモンテッソーリ教育史の中では、彼女の存在が見えにくくなったのかもしれません。
しかし、ベラの人生全体を見れば、まったく違う姿が見えてきます。
彼女が目指したのは、一つの教育法をそのまま輸入することではありませんでした。
世界を歩き、自分の目で教育を見て、学び、その中から子どもに必要だと思うものを選ぶ。
そして、日本の子どもたちと保育者のための教育へと育て直していく。
マリア・モンテッソーリ本人から直接学んだ経験も、その大きな学びの一つとして、確かにベラの教育の中に残っていたのです。
1942年、日本人「有院遍良」になる
ベラは日本で教育活動を続けました。
1923年の関東大震災では学校も大きな影響を受けましたが、玉成保姆養成所と幼稚園の活動は続きます。
1927年には西高井戸へ移転し、保育者養成と幼児教育を一体的に行う体制を整えていきました。
そして1942年。
ベラ・アルウィンは日本国籍を取得し、「有院遍良」と名乗ります。
日本人の母を持ち、日本に生まれ、日本の子どもたちの教育に人生を捧げてきたベラは、59歳になる年に、法的にも日本人となりました。
アルウィン学園へ
戦後の1947年。
学制改革にともない、財団法人アルウィン学園が設立され、ベラは初代理事長、学園長を務めました。
1952年には現在の杉並区松庵へ移転。
そして1957年、ベラ・アルウィンは73年余りの生涯を閉じます。
しかし、彼女がつくった教育の場はなくなりませんでした。
1916年、学生11名、園児10名から始まった学校は、現在の学校法人アルウィン学園へと受け継がれています。
現在も玉成保育専門学校、玉成幼稚園などを通して、子どもの教育と保育者養成が続けられています。
アルウィン学園によれば、これまでに4,000人の保育者を送り出してきました。
マリア・モンテッソーリから学んだ、その先へ
マリア・モンテッソーリ本人から直接学んだこと。
それだけでも、ベラ・アルウィンは日本のモンテッソーリ教育史において、特別な位置にいる人物です。
しかし、彼女の生涯をたどっていくと、それだけでは十分ではないことがわかります。
フレーベルにも学んだ。
モンテッソーリにも学んだ。
アメリカでも学んだ。
そして、日本の文化にも深く向き合った。
そのすべてを一つの教育思想へとまとめ、子どもと保育者のための学校をつくったのが、ベラ・アルウィンでした。
1914年、ローマでマリア・モンテッソーリの講義を聞いていた一人の女性。
その女性が日本へ戻り、モンテッソーリ教育だけを広げるのではなく、自らが信じる幼児教育をつくり上げた。
そして、その教育の場は100年以上を経た今も続いています。
日本にモンテッソーリ教育が本格的に根づくよりも、はるか以前。
その始まりの歴史の中に、ベラ・アルウィンという日本人教育者がいたことを、私たちはもう一度知っておきたいと思います。
参考資料
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