スペインとギリシャに渡ったモンテッソーリ教育 – 普及を支えた教育者たちの物語

1907年、マリア・モンテッソーリがローマに最初の「子どもの家」を開いてから、その教育は世界各地へと広がっていきました。
マリア・モンテッソーリは各国で講演を行い、教師を養成し、著書を通して教育理念を伝えました。
しかし、その教育が新しい国に根づくためには、もう一つ欠かせない存在がありました。
それは、彼女の教育に可能性を見いだし、自分たちの国で実現しようとした教育者たちです。
2026年1月8日、国際モンテッソーリ協会(AMI)の研究紹介シリーズ「Research Threads」は、スペインとギリシャにおけるモンテッソーリ教育の普及を調べた2本の歴史研究を紹介しました。
そこには、教育改革を進めようとした人々が行政を動かし、教師を海外へ送り、教室を準備した歴史が記されています。
そして、その活動は数十年後、別の国の一人の女性教師へとつながっていきます。
舞台となるのは、スペインのバルセロナと、ギリシャのアテネ。
二つの国でモンテッソーリ教育が広がっていく過程を、当時の写真とともにたどります。
【スペイン編】1910年代、バルセロナで始まった教育改革
20世紀初頭のスペイン。
工業都市として発展していたバルセロナでは、貧困や社会的不平等が大きな問題となっていました。
そのなかで、一部の教育者や政治家たちは、社会を変えるためには、まず教育を変える必要があると考えていました。
当時の学校では、大人が教え、子どもが覚えるという教育が一般的でした。
それに対して、子どもが自ら活動し、自分の力で学んでいくモンテッソーリ教育は、非常に新しいものとして受け止められました。
1911年には、バルセロナの雑誌でマリア・モンテッソーリの教育が紹介されています。
そして、その教育を本格的に取り入れようと動いた人物の一人が、エラディ・オムス(Eladi Homs)でした。
教育改革を動かしたエラディ・オムス
エラディ・オムスは、カタルーニャ地方の教育改革に携わっていた教育者です。
1907年にアメリカへ渡り、その後シカゴなどで教育について学んだ経験を持っていました。
帰国後は、海外で見た新しい教育の考え方を取り入れ、地域の学校を変えるために活動していました。

エラディ・オムス・イ・オリェル(Eladi Homs i Oller、1886–1973)。20世紀初頭のカタルーニャで教育改革を推進し、モンテッソーリ教育の導入に尽力した教育者。1916年のバルセロナ国際養成コースの実現にも貢献した。肖像写真を参考に制作したイラスト。背景はバルセロナの街並み。
1912年には、自身が編集に関わっていた教育雑誌でモンテッソーリ教育を紹介しています。
当時のカタルーニャでは、地方の行政機関も教育改革に積極的でした。
1913年には、乳幼児を保護する公的施設にモンテッソーリ教育を導入する計画にも関わります。
教育者をイタリアに派遣して現地の実践を学ばせるという、具体的な取り組みも始まりました。
注目すべきなのは、この時点では、まだマリア・モンテッソーリ本人がバルセロナで活動していたわけではないことです。
モンテッソーリ教育を取り入れたいと考えた現地の人々が、先に行動を起こしていたのです。
1914年、7人の女性教師がローマへ渡った
1914年、カタルーニャの行政機関は、7人の女性教師をイタリアへ派遣しました。
目的は、ローマで開かれる第2回国際モンテッソーリ養成コースへの参加でした。
当時、外国へ渡って新しい教育を学ぶことは、簡単なことではありませんでした。
しかし、彼女たちは現地でマリア・モンテッソーリから学び、帰国後は各地の学校で実践を始めます。

1914年|ローマのサンタンジェロ城で撮影された第2回国際モンテッソーリ養成コースの集合写真。この年、カタルーニャから派遣された7人の女性教師も養成コースで学んだ。出典:『La Ilustració Catalana/Feminal』1914年7月26日号、pp.2–6。資料:Atlante Montessori。
帰国した教師たちは、学校で実践するだけでなく、講演や講習会を通して、学んだことをほかの教師たちへ伝えていきました。
こうしてカタルーニャでは、モンテッソーリ教育を知る人が少しずつ増えていきます。
著書を読むだけでなく、実際に養成を受けた教師が教室をつくり、子どもと活動するようになったのです。
マリア・モンテッソーリ本人が訪れる前から、現地の教師たちによって教育の普及が始まっていました。
1915年、マリア・モンテッソーリより先に教室を準備した女性教師
1915年2月、バルセロナへ一人のイタリア人女性教師がやってきました。
アンナ・マッケローニ(Anna Maccheroni)です。
彼女はマリア・モンテッソーリの親しい協力者であり、教育実践を支えてきた教師でした。
当時、マリア・モンテッソーリはアメリカでの活動を予定していたため、先にアンナ・マッケローニがバルセロナへ派遣されたのです。
現地で任された仕事は、新しい学校を準備することでした。
しかし、当初予定されていた乳幼児保護施設を訪れると、子どもたちが置かれている状況を見て、別の場所に教室を設ける必要があると考えました。
その提案を受け、行政は新しい校舎を探すことになります。
教室には、政治家や知識人の家庭だけでなく、労働者の家庭の子どもたちも迎えられました。
さらに、現地の専門家が協力して、カタルーニャ語の教材や子ども用の家具が準備されます。
最初の教具はイタリアから取り寄せられましたが、やがて地元でも教材や家具が製作されるようになりました。
ここで行われていたのは、海外の教育方法をそのまま持ち込むことではありませんでした。
マリア・モンテッソーリの教育理念をもとに、カタルーニャの子どもたちのための環境が準備されていたのです。
1915年7月には、34人の子どもたちが学校に通っていました。
そのうち22人が幼い子どもたち、12人が初等教育段階の子どもたちでした。
アンナ・マッケローニは、実践の成果を報告書にまとめました。
その報告は行政からも高く評価され、学校はさらに規模を拡大していきます。
1915年12月23日、マリア・モンテッソーリがバルセロナに到着
1915年12月23日、午前8時30分。
マリア・モンテッソーリと息子のマリオたちが、列車でバルセロナに到着しました。
第一次世界大戦によってヨーロッパ各地での活動が難しくなる一方、バルセロナには、新しい教育を受け入れようとする行政と教育者たちがいました。
マリア・モンテッソーリにとっても、幼児期だけでなく、初等教育段階まで教育を発展させるための実践の場が必要でした。
バルセロナには、そのための学校と養成コースを実現できる環境があったのです。
到着した翌日のクリスマスイブには、バルセロナの音楽堂「パラウ・デ・ラ・ムジカ」で演奏会を聴きました。
そこでカタルーニャの伝統的な歌「鳥の歌(El cant dels ocells)」を耳にし、涙を流したという記録が残されています。
マリア・モンテッソーリは、その少し前に父親を亡くしたばかりでした。
教育のために世界中を旅していた彼女にも、一人の娘として悲しみを抱えていた時間があったのです。
1916年1月、子どもたちが活動する教室
1916年1月、バルセロナの「Casa dels Nens(子どもたちの家)」で撮影された写真が残されています。

1916年1月22日|バルセロナの「Casa dels Nens」の教室。子どもたちがそれぞれの机で活動している。撮影:Frederic Ballell Maymí。所蔵:Arxiu Fotogràfic de Barcelona(バルセロナ写真アーカイブ)。出典:Daniel Cañigueral Viñals(2022), 『Educació i Història』第40号、p.212。
写真には、子どもたちがそれぞれの机で活動する様子が写っています。
全員が教師の方を向いて一斉に授業を受けているのではありません。
子どもたちは、それぞれの場所で自分の活動に取り組んでいます。
100年以上前の写真ですが、現在のモンテッソーリ教室にも通じる姿を見ることができます。
同じ時期に、マリア・モンテッソーリが少年とともに数学教材を扱う様子も撮影されました。

1916年|バルセロナの「Casa dels Nens」で、数学教材に取り組む少年とマリア・モンテッソーリ。出典:『La Ilustració Catalana/Feminal』1916年1月30日号、pp.6–7。資料:Atlante Montessori。
大人が一方的に教えるのではなく、子ども自身が教材を扱い、考えながら活動している。
その姿は、当時のバルセロナで何が実践されていたのかを伝えています。
この学校は、翌月から始まる国際養成コースで、教師たちが子どもの活動を観察する場所にもなりました。
1916年、245人が集まった国際養成コース
1916年2月16日。
バルセロナで国際モンテッソーリ養成コースが始まりました。
正規の受講者は187人、聴講者は58人。
合わせて245人が参加した、大規模な養成コースでした。
しかし、その準備は順調ではありませんでした。
当時、スペインの中央政府は、カタルーニャで進められていた教育改革を政治的に警戒していました。
政府は、公立学校の教師が授業を休んで養成コースに参加することを制限します。
これに対して、マリア・モンテッソーリとエラディ・オムスたちは、教師が参加できるように働きかけました。
政治家による抗議も行われ、最終的にバルセロナの公立学校の教師には参加が認められます。
教育のための養成コースを開くことさえ、当時は政治的な対立と無縁ではなかったのです。
それでも、講義は始まりました。
マリア・モンテッソーリは、合計38回の講義を行いました。
日常生活の活動、感覚教育、言語、数学、幾何学、音楽など、幼児期から初等教育までの幅広い内容が扱われました。
講義はカタルーニャ語にも翻訳され、受講者へ配布されました。
また、実際に活動する子どもたちを観察し、教具を扱う実習も組み込まれていました。
参加者たちは、講義を聞くだけでなく、子どもたちの活動を通して教育を学んでいたのです。
大人たちに教具の使い方を見せていたのは、子どもたちだった
1916年の養成コースでは、講義を聞くだけでなく、実際の教室を観察する時間が設けられていました。
受講者は週4時間、子どもたちが活動する教室を訪れていました。
さらに、アンナ・マッケローニが残した記録には、驚くようなエピソードがあります。
子どもたちは、養成コースのために教具を運ぶ作業を手伝っただけでなく、大人の受講者に教具の使い方を示していたというのです。
教える側と教わる側が、反対になっていました。
もちろん、子どもたちが教師養成の講義を担当していたという意味ではありません。
しかし、普段から教具に親しみ、自分で活動していた子どもたちが、その使い方を自然に示していたことがわかります。
新しい教育を学ぶために集まった大人たちが、実際に活動する子どもの姿から学んでいたのです。
マリア・モンテッソーリの教育が、子どもの観察から始まったことを思い出させる出来事です。
100年以上前の養成コースでも、子どもの活動を通して学ぶことが大切にされていたのです。
1916年5月、養成コースを終えた教師たち
1916年5月10日、講義が終了しました。
その後、130人が筆記試験と口頭試験を受けました。
5月には、受講者たちがマリア・モンテッソーリへの感謝を込めて、ホテル・ティビダボで晩餐会を開きました。
そのときの写真も残されています。

1916年5月|バルセロナのホテル・ティビダボで行われた国際モンテッソーリ養成コース参加者による晩餐会。マリア・モンテッソーリへの敬意と感謝を表すために開催された。撮影:A. Merletti。出典:『La Ilustración Artística』1916年5月22日号、p.343。資料:Atlante Montessori。
大勢の教師たちが食卓を囲んでいます。
この人々は、養成コースを終えたあと、それぞれの学校や地域へ戻っていきました。
彼らが持ち帰ったのは、教材の扱い方だけではありません。
子どもを観察すること。
子どもの自発的な活動を尊重すること。
そして、子どもが自分で学べる環境を準備すること。
そうした教育の考え方が、教師たちを通して各地へ伝えられていったのです。
また、講義の終了にあたり、マリア・モンテッソーリは教育と平和についても語りました。
第一次世界大戦が続くなかで、人間の内面を変えること、そしてそのために子どもの教育が果たす役割を訴えたのです。
彼女にとって、教育は単に学校の中だけの問題ではありませんでした。
社会の未来を変えていくための、大切な営みだったのです。
政治による中断、それでも途絶えなかった教育の交流
バルセロナの国際養成コースは成功を収めました。
しかし、カタルーニャの教育改革が、その後も順調に進んだわけではありません。
1920年代に入ると、行政とマリア・モンテッソーリの協力関係は変化していきます。
1923年にはスペインで独裁政権が成立し、教育改革をめぐる環境はさらに厳しくなりました。
それでも、モンテッソーリ教育の実践が完全に消えたわけではありませんでした。
1929年頃から、バルセロナでは再びモンテッソーリ教育をめぐる活動が活発になります。
そして1933年、バルセロナで第18回国際モンテッソーリ養成コースが開催されました。
そのコースに、一人の外国人女性教師が参加していました。
この女性教師が学んだことは、やがてギリシャの教育を変えていくことになります。
ここから、物語の舞台はスペインを離れ、ギリシャへと移ります。
【ギリシャ編】1933年、バルセロナで出会った一人の女性教師
1933年、バルセロナで開かれた第18回国際モンテッソーリ養成コース。
その時期に撮影された一枚の集合写真が残されています。

1933年|スペイン・バルセロナで開かれたモンテッソーリの国際的な集まりを記録した集合写真。原論文によると、3列目の左から3人目に、ギリシャから参加したマリア・エデルスタイン(後のマリア・グーデリ)が写っている。出典:Elisavet Chorianopoulou(2022), “Maria Edelstain-Goudeli and the Beginning of Montessori Education in Greece”, 『Educació i Història』第40号、p.173。
大勢の教師たちが並ぶ写真の中に、ギリシャからやってきた一人の女性教師が写っています。
名前は、マリア・エデルスタイン(Maria Edelstain)。
後に、ギリシャでモンテッソーリ教育を根づかせることになる人物です。
この写真が撮影された1933年、彼女はバルセロナでマリア・モンテッソーリ本人から教育を学んでいました。
1916年に国際養成コースが開催されたバルセロナで、17年後、ギリシャの教育史につながる新たな出会いが生まれていたのです。
「子どもが叩かれない学校をつくりたい」
マリア・エデルスタインは、1906年または1908年、現在のウクライナにあるオデーサで生まれました。
幼少期にはエジプトのギリシャ人社会で育ち、さまざまな言語や文化に親しみました。
彼女が教師を志すようになった背景には、子どものころに目撃した、忘れられない出来事がありました。
小学校4年生だったある日のことです。
厳しい教師が、一人の男子児童を定規で激しく叩きました。
叩かれた男の子は逃げようとして、教室のドアのガラスを割り、そのまま外のバラの茂みに転落してしまいます。
男の子は傷だらけになり、血を流していました。
その光景を見た少女は、大人になったら、子どもが叩かれず、幸せに過ごせる学校をつくりたいと考えました。
これは、マリア・エデルスタイン自身が後年に語った記憶として、研究論文に紹介されているエピソードです。
1921年、家族はギリシャへ移住しました。
その後、教師の資格を取得し、学校で教えるようになります。
しかし、教師になってからも、教育とはどうあるべきかという問いを持ち続けていました。
自然科学、音楽、演劇など、教育に関わるさまざまな分野も学んでいます。
そして、ヨーロッパで広まりつつあったモンテッソーリ教育を知り、マリア・モンテッソーリ本人から学びたいと考えるようになります。
1933年、マリア・モンテッソーリから直接学ぶ
1933年1月24日、マリア・エデルスタインは、ギリシャの教育省に海外研修の許可を申請しました。
目的は、バルセロナで開かれる国際モンテッソーリ養成コースへの参加でした。
申請は認められ、彼女は1933年2月から6月にかけてスペインで学ぶことになります。
そこでマリア・モンテッソーリの講義を受け、教具の扱い方を学び、実際の学校で子どもたちの活動を観察しました。
この研修について、後に自分の教育実践の方向性が完全に変わったと振り返っています。
1933年6月30日、マリア・エデルスタインは国際モンテッソーリ養成コースのディプロマを取得しました。
その資格は、4歳から12歳までの子どもたちにモンテッソーリ教育を行うためのものでした。
ここで重要なのは、幼児教育だけでなく、小学校段階までの教育を学んでいたことです。
この経験は、その後のギリシャでの活動にも大きく影響することになります。

マリア・エデルスタイン(Maria Edelstain、結婚後はマリア・グーデリ)。1933年にバルセロナでマリア・モンテッソーリから直接学び、帰国後、ギリシャでモンテッソーリ教育の普及に尽力した教育者。肖像写真を参考に制作したイラスト。背景はアテネの街並み。
1938年、ギリシャの公立学校にモンテッソーリの教室が誕生
スペインでの研修を終えたマリア・エデルスタインは、ギリシャへ戻りました。
目指していたのは、モンテッソーリ教育を自分の国の子どもたちに届けることでした。
しかし、ギリシャの教育制度は、学校で教える内容や時間割、教材などを国が厳しく管理する仕組みでした。
新しい教育方法を学校へ導入することは、容易ではありません。
それでも彼女は、教育関係者の協力を得ながら実践の機会を探していきます。
実は、ギリシャでも1921年に、モンテッソーリ教育の教員養成を試みた記録が残されています。
当時、30人の女性が講習に参加したとされていますが、その後の活動については、十分な資料が見つかっていません。
教育を継続的に実践するためには、まだ大きな壁があったのです。
マリア・エデルスタインもまた、教育改革者たちの協力を得ながら、学校での実践を目指しました。
1937年12月には、アテネの公的な教員養成機関「マラスリオ教育アカデミー」の幼児教育部門へ配属されます。
翌1938年には、その学校内にモンテッソーリ教育のための環境を整えました。
研究論文では、この取り組みを、ギリシャで最初に設立されたモンテッソーリ学校と位置づけています。
注目したいのは、これが私立学校ではなく、公教育の中で行われた実践だったということです。
そして、その当時の教室を撮影した写真が残っています。

1938年|ギリシャ・アテネのマラスリオ初等学校(Marasleio Primary School)に設けられたモンテッソーリ教室。子どもたちは小さな机や床の上で、それぞれ教材を使った活動に取り組んでいる。マリア・エデルスタインが公教育の中で実践した初期のモンテッソーリ教育を伝える写真。出典:Elisavet Chorianopoulou(2022), “Maria Edelstain-Goudeli and the Beginning of Montessori Education in Greece”, 『Educació i Història』第40号、p.176。
写真には、小さな机に向かって活動する子どもたちや、床に座って教材を扱う子どもたちが写っています。
壁には黒板が設けられ、棚にはさまざまな教材が並んでいます。
子どもたちは一斉に同じことをしているわけではありません。
それぞれが異なる活動に取り組んでいる様子が見て取れます。
この写真を見ると、1938年のギリシャでも、子どもの活動を中心とした教室環境が準備されていたことがわかります。
それは、1916年のバルセロナの教室写真にも通じる姿です。
国も文化も異なる二つの教室で、子どもたちが自分の活動に取り組んでいたのです。
学校の協力を得て、教具一式もオランダから取り寄せられました。
しかし、教具の輸入にはさまざまな障害があり、税関や輸送に関する問題を解決するため、何度も書簡を送らなければなりませんでした。
さらに、ギリシャの言語、文化、歴史に関する教材も製作しています。
教具をそのまま輸入すれば教育が完成するわけではありません。
自分たちの国で暮らす子どもたちが学べるように、環境を整える必要があったのです。
1942年、結婚によって「マリア・グーデリ」という名前になる
1942年、マリア・エデルスタインは、数学者で教育者のソティリス・グーデリス(Sotiris Goudelis)と結婚しました。
結婚後、彼女はマリア・グーデリ(Maria Goudeli)という名前になります。
ギリシャ語では、男性の姓と女性の姓で語尾が異なるため、夫は「グーデリス」、妻は「グーデリ」となります。
ソティリス・グーデリスは、社会のあり方や教育に強い関心を持つ人物でした。
その後、夫婦は協力して学校づくりを進めていきます。
戦争のなかでも、子どもたちのために活動を続けた
二人が結婚したころ、ギリシャはすでに戦争のさなかにありました。
1940年にギリシャが第二次世界大戦に巻き込まれて以来、学校での教育活動は大きく制限されていました。
マリア・グーデリの仕事も、それまでとは違うものになっていきます。
食料支援の仕事に携わり、生活に困っている子どもや家庭を助けました。
また、保育施設の整備や、戦争の被害を受けた子どもたちの教育にも関わりました。
その一方で、モンテッソーリ教育を広めることを諦めてはいませんでした。
1943年には、女性たちを対象に教育学を教えるようになります。
その講習でも取り上げたのは、モンテッソーリ教育でした。
理論を教えるだけでなく、実際の子どもたちと関わる実習も行われました。
戦争によって社会が混乱するなかでも、彼女は次の教師たちへ教育を伝え続けていたのです。
「幼児教育だけで終わらせてはいけない」
1944年6月24日、マリア・グーデリは、モンテッソーリ教育を小学校段階まで継続できる学校を設けるため、当局へ申請書を提出しました。
その申請書で訴えていたのは、子どもの教育が途中で途切れてしまうことへの懸念でした。
モンテッソーリ教育は、単に子どもを小学校へ入学させるための準備教育ではありません。
誕生から成人まで、人間の発達を継続的に支える教育である。
幼児期にモンテッソーリ教育を受けた子どもたちが、小学校に進んだ途端、その教育を続けられなくなることを問題だと考えていました。
しかし、学校の責任者は、この計画を認めませんでした。
モンテッソーリ教育の学校を認めれば、ギリシャの教育制度に分裂を招くという理由でした。
教育を変えたいという願いが、既存の制度と衝突したのです。
1945年、マリア・グーデリは公教育の仕事を辞めることになります。
それまで公立学校でモンテッソーリ教育を実践してきた彼女にとって、大きな転機でした。
しかし、教育者としての仕事を諦めたわけではありませんでした。
1949年、自宅に開いたモンテッソーリ学校
マリア・グーデリは、もともと私立学校を経営したいと考えていたわけではありません。
すべての子どもが教育を受けられる公教育を重視していました。
しかし、公立学校の中でモンテッソーリ教育を継続することが難しくなったため、自分で学校をつくる道を選びます。
1946年には、理解ある私立学校の協力を得て、モンテッソーリ教育の教室を設けました。
その後、夫のソティリス・グーデリスとともにフランスへ渡り、教育について学びながら学校を見学し、教材を集めました。
そして1949〜1950年度。
ついにアテネの自宅で、3歳から6歳までの子どもたちを対象としたモンテッソーリ学校を開きました。
翌1950〜1951年度には、小学校段階の教育も始めます。
幼いころに「子どもが叩かれず、幸せに過ごせる学校をつくりたい」と願ったマリア・グーデリ。
その願いが、長い年月を経て実現したのです。

1950年|アテネのマリア・グーデリ夫妻の自宅に設けられたモンテッソーリ小学校。ピアノを囲む子どもたちの姿が写っている。出典:Elisavet Chorianopoulou(2022), 『Educació i Història』第40号、p.179。
子どものための学校は、建物にも教育理念を取り入れた
マリア・グーデリとソティリス・グーデリスは、学校を単なる事業として考えていませんでした。
経済的に余裕のない家庭には、学費の減免や奨学金による支援を行いました。
また、学校が利益を追求する組織となり、教育理念が失われてしまうことを望んでいませんでした。
1964年には、さらに大きな校舎へ移転します。
新しい校舎は、建築家コンスタンティノス・ドクシアディスが、マリア・グーデリの監修のもとで設計したものでした。
その建物には、子どもが自分で活動できることや、周囲の環境を探索できることなど、モンテッソーリ教育の考え方が取り入れられました。
また、彼女はギリシャの言語、歴史、文化などに関する教材の製作にも取り組みました。
夫も数学教育の教材づくりに協力しています。
こうして、マリア・モンテッソーリから学んだ教育は、ギリシャの子どもたちの生活に合った形で実践されていきました。
75年以上続く学校に残されたもの
1949年に自宅で始まった学校は、現在もアテネで運営されています。
学校の名前は、「モンテッソーリ・スクール・オブ・アテネ マリア・グーデリ」。
現在は、マリア・グーデリとソティリス・グーデリスの名前を冠した非営利財団が学校を支えています。
創設者であるマリア・グーデリが大切にしていたのは、教具を使うことだけではありませんでした。
子どもの発達を理解し、子どもが自分で活動できる環境を整えること。
そして、モンテッソーリ教育を幼児期だけで終わらせず、その後の成長へとつなげていくことでした。
その考え方は、学校の建物や教育内容、そして現在の運営にも受け継がれています。
モンテッソーリ・スクール・オブ・アテネ マリア・グーデリ(公式サイト)
モンテッソーリ教育を世界へ広めた人々
スペインとギリシャ。
二つの国におけるモンテッソーリ教育の普及には、異なる歴史がありました。
スペインでは、エラディ・オムスのような教育改革者が行政を動かし、教師を海外へ派遣しました。
アンナ・マッケローニのような教師は、子どもたちのための環境を整えました。
そして、マリア・モンテッソーリ本人を迎え、大規模な国際養成コースを実現しました。
一方、ギリシャでは、マリア・エデルスタインが海外で学び、帰国後に公教育の中で実践を始めました。
その後、結婚してマリア・グーデリとなった彼女は、政治や制度の壁にぶつかりながらも、子どもたちのための学校を築きました。
スペインでは、多くの教育者と行政機関の協力が普及を支えました。
ギリシャでは、一人の女性教師の強い意志と、それを支える人々の協力が教育を根づかせました。
二つの国の歩みは異なります。
しかし、その根底には、共通する願いがありました。
子どもが自分の可能性を十分に発揮できる教育を実現したい。
マリア・モンテッソーリが発見した教育の考え方は、こうした願いを持つ人々によって、それぞれの社会へ運ばれていきました。
そして、その人々は、ただ教育方法を受け取っただけではありません。
地域の言葉に合わせて教材を準備し、教師を育て、学校をつくり、子どもたちの活動を支えてきました。
モンテッソーリ教育の国際的な普及を考えるとき、マリア・モンテッソーリという一人の偉大な教育者の存在は欠かせません。
しかし同時に、その教育を受け継ぎ、それぞれの国で実践してきた人々の存在も忘れてはならないのでしょう。
1916年のバルセロナで、子どもたちの活動から学んでいた教師たち。
1933年の国際養成コースに参加した、ギリシャの一人の女性教師。
そして、1949年にアテネの自宅で開かれた、小さなモンテッソーリ学校。
教育の歴史は、そうした一つひとつの出会いと実践によってつくられてきたのです。
今回の研究について
今回の歴史を紹介したのは、国際モンテッソーリ協会(AMI)の研究紹介シリーズ「Research Threads」です。
2026年1月8日公開の「The Internationalisation of Montessori Pedagogy」では、2022年に学術誌『Educació i Història』第40号に掲載された2本の研究論文が取り上げられました。
スペインについて研究したダニエル・カニゲラル・ビニャルスは、エラディ・オムスが残した書簡や行政文書などを調査し、マリア・モンテッソーリがバルセロナへ招かれた経緯を明らかにしました。
一方、ギリシャについて研究したエリサヴェット・ホリアノプルは、マリア・グーデリが残した記録や当時の行政文書、関係者への聞き取りをもとに、ギリシャでモンテッソーリ教育が根づくまでの歩みを調べました。
両国の歴史をあわせて読むことで、モンテッソーリ教育の普及が、教育理念を伝えるだけではなく、各地の社会や政治、文化と関わりながら進んできたことが見えてきます。
参考資料
国際モンテッソーリ協会(AMI)Research Threads
The Internationalisation of Montessori Pedagogy
2026年1月8日公開
AMIの研究紹介記事
スペインに関する研究
Daniel Cañigueral Viñals(2022)
L’arribada de Maria Montessori a Barcelona i el Curs Internacional de 1916
『Educació i Història』第40号、pp.201–225
原論文PDF
DOI:10.2436/20.3009.01.290
ギリシャに関する研究
Elisavet Chorianopoulou(2022)
Maria Edelstain-Goudeli and the Beginning of Montessori Education in Greece
『Educació i Història』第40号、pp.161–182
原論文PDF
DOI:10.2436/20.3009.01.288
歴史写真資料
Atlante Montessori
1914年ローマ・第2回国際養成コース
1916年バルセロナ・マリア・モンテッソーリと子ども
1916年バルセロナ・国際養成コースの晩餐会
エラディ・オムスの人物資料
カタルーニャ州政府教育省
Eladi Homs i Oller
アテネのモンテッソーリ学校
Montessori School of Athens Maria Goudeli
学校公式サイト
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