カテゴリ / コラム モンテッソーリ教育に影響を受けた著名人
一覧

アンネ・フランクとモンテッソーリ教育 – 10歳で語った学校生活と、13歳から書き続けた日記

『アンネの日記』という本を知っていますか。

第二次世界大戦中、ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害から逃れるため、家族とともに隠れ家で暮らしていた少女が書き続けた日記です。

その作者が、アンネ・フランク(Anne Frank、1929〜1945年)です。

アンネ・フランクとは、どんな少女だったのか

アンネは1929年6月12日、ドイツのフランクフルトに生まれました。父オットー、母エーディト、3歳年上の姉マルゴットと暮らす、ユダヤ人家庭の次女でした。

1933年、ドイツでアドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を握ると、ユダヤ人に対する差別や迫害が強まっていきます。

身の危険を感じた両親は、家族でオランダへ移住することを決めました。

1934年2月、4歳のアンネもアムステルダムに移り住みます。新しい土地でオランダ語を覚え、友だちをつくり、学校へ通うようになりました。

しかし、1940年5月、ドイツ軍がオランダに侵攻します。やがてアンネたちユダヤ人は、さまざまな自由を奪われていきました。

1942年、13歳になったアンネは、父の会社の建物に設けられた隠れ家で生活を始めます。外出することも許されない日々のなか、日記を書き続けました。

その日記は、戦後の1947年に父オットーの尽力によって出版され、世界中で読まれるようになります。

そんなアンネについて、あまり知られていないことがあります。

アンネは4歳から12歳まで、およそ7年半にわたってモンテッソーリ教育を受けていたのです。

しかも、その学校生活については、本人の手紙や父親の証言、教師の回想、当時の学校記録が残されています。

今回は、これらの資料をもとに、アンネとモンテッソーリ教育の関係をたどってみます。

4歳のアンネが通い始めたモンテッソーリ学校

アンネがモンテッソーリ教育を受け始めたのは、1934年4月のことでした。

アムステルダムにあるモンテッソーリ方式の幼児学校、第51準備学校(Voorbereidende School No. 51)に入学したのです。

翌1935年8月には、同じ建物にある第6公立モンテッソーリ学校の初等教育課程へ進みました。

当時のオランダでは、マリア・モンテッソーリの教育方法がすでに広がりを見せていました。

特にアムステルダムでは、市が公立のモンテッソーリ学校を積極的に設立しており、アンネが通った学校もその一つでした。

1935年から4年間、アンネの担任を務めたのは、ヤン・ヘリット・エンノ・ファン・ヘルダー(Jan Gerrit Enno van Gelder)という教師です。

アンネには、学校で仲良くなった友だちもいました。

その一人が、ハンネリ・ホスラー(Hanneli Goslar)です。

ハンネリは後年、幼児学校にあったモンテッソーリのベルの机のそばで、アンネと抱き合い、言葉を交わさずに友だちになった思い出を語っています。

モンテッソーリの教具に囲まれた教室で、二人の友情は始まったのでした。

アンネが通った学校は、戦後の1957年、彼女の名前を冠した「第6モンテッソーリ学校アンネ・フランク」へと改称されました。

アンネ・フランクの学校生活(アンネ・フランクの家)

10歳のアンネが書いた、モンテッソーリ教育についての手紙

アンネとモンテッソーリ教育の関係を考えるうえで、特に興味深い記録があります。

1940年4月29日、10歳のアンネがアメリカの少女に書いた手紙です。

手紙の宛先は、アメリカ・アイオワ州に住むフアニータ・ワグナー(Juanita Wagner)という少女でした。

当時、アンネの姉マルゴットは、アメリカの学校との国際文通活動に参加していました。その縁で、アンネもフアニータと手紙を交換することになったのです。

アンネはその手紙の中で、自分の通っている学校を次のように説明しています。

私たちには、時間ごとに区切られた授業がありません。好きな事に取り組めますが、もちろん、達成しなければならない目標はあります。

そして、この教育方法が「モンテッソーリ」と呼ばれるものであることを伝えています。

これは、10歳のアンネが自分の学校生活を説明した、とても貴重な言葉です。

モンテッソーリ教育では、子どもが自分で活動を選び、それに取り組む時間が大切にされています。

しかし、何をしてもよいというわけではありません。

子ども自身が選択し、目的をもって活動に取り組むことが重視されます。

アンネの手紙には、自分で活動を選べることと、達成すべき目標があることの両方が書かれています。

現在のモンテッソーリ教育にも通じる特徴を、アンネ自身が説明していたのです。

なお、この手紙は英語で書かれていますが、当時のアンネはまだ学校で英語を習っていませんでした。

アンネ・フランク財団の研究では、最初にオランダ語で文章を書き、父オットーか姉マルゴットが英語への翻訳を手伝った可能性が指摘されています。

手紙の原本は、現在、アメリカのMuseum of Toleranceに所蔵されています。

アンネとマルゴットのアメリカへの手紙(アンネ・フランクの家)

父オットーは、アンネを「本当のモンテッソーリの子ども」と呼んだ

アンネの父オットー・フランクは、戦後、娘が受けた教育について何度か言及しています。

1947年6月、アンネが通っていた学校の校長クペルス先生に宛てた手紙では、次のように書いています。

アンネは本当のモンテッソーリの子どもでした。

さらに1968年には、一人ひとりの子どもに個別の配慮がなされるモンテッソーリ学校に通えたことが、アンネにとってよかったと振り返っています。

オットーと妻エーディトは、アンネにはこの教育方法が合っていると考え、モンテッソーリ学校を選んでいたのです。

一方、実際のアンネは、どのような子どもだったのでしょうか。

6年生の担任であり校長でもあったヘンドリカ・クペルス先生は、後年、アンネについて興味深い証言を残しています。

先生の記憶では、アンネは活発で、自発的に行動する、感じのよい少女でした。

友だちとよく遊び、ほかの子どもと一緒に活動する姿も見られました。

ただ、学校の中で特別に目立つ存在だったわけではないといいます。

体調を崩して欠席することも多く、そのために学習が遅れる時期もありました。

『アンネの日記』が出版され、アンネが世界的に知られるようになった後、人々は学校時代のアンネも特別に優秀だったはずだと考えるようになりました。

しかし、クペルス先生の記憶は、そのようなイメージとは少し違っていました。

後に世界的な作家として知られることになる少女も、学校では友だちと過ごし、ときには勉強が遅れる、ごく普通の子どもだったのです。

モンテッソーリ教育が、アンネを作家にしたのだろうか

アンネの文章とモンテッソーリ教育には、どのような関係があったのでしょうか。

この疑問を取り上げた研究があります。

2019年、アンネ・フランク財団の研究者ヘルトヤン・ブルック(Gertjan Broek)博士は、第6モンテッソーリ学校の歴史とアンネの学校生活について、37ページに及ぶ調査報告書を発表しました。

報告書のタイトルは、オランダ語で『Niet doen wat je wilt, maar willen wat je doet』。

日本語にすれば「したいことを何でもするのではなく、自分のすることに意志をもつ」といった意味です。

この報告書は、当時の入学記録や学校文書、教師や同級生の証言などをもとに、アンネがどのような教育環境で育ったのかを調べています。

研究者は、モンテッソーリ教育の中でも、特に言語に関わる活動がアンネに合っていた可能性を指摘しています。

実際、アンネは小学生のころから文章を書くことを楽しんでいたようです。

友だちの詩のアルバムに書いた短い文章が11点確認されており、そのうち8点は第6モンテッソーリ学校の少女たちに宛てたものでした。

しかし、研究報告書は慎重です。

モンテッソーリ教育がアンネの作家としての才能を生み出したかどうかについては、文章そのものを詳しく分析する研究なしには判断できないとしています。

これは大切な指摘だと思います。

アンネがモンテッソーリ教育を受けたことは、確かな史実です。

彼女の父親が、その教育が娘に合っていたと考えていたことも確認できます。

しかし、それだけで「モンテッソーリ教育がアンネを偉大な作家に育てた」と結論づけることはできません。

子どもの才能は、一つの教育方法だけで説明できるものではないからです。

むしろ注目したいのは、アンネが自分で選び、自分の考えを表現することのできる教育環境で、幼少期の長い時間を過ごしていたという事実です。

それが後の文章にどのような影響を与えたのかは、今後さらに研究されるべきテーマでしょう。

2019年の調査報告書
『Niet doen wat je wilt, maar willen wat je doet』(PDF・オランダ語・37ページ)を読む

ユダヤ人という理由で、学校に通えなくなった

アンネの学校生活は、1941年に突然終わりを迎えます。

1940年5月、ナチス・ドイツはオランダを占領しました。

その後、ユダヤ人に対する差別政策が次々と実施されます。

1941年9月には、ユダヤ人の子どもがユダヤ人以外の子どもと同じ学校で学ぶことが禁止されました。

アンネが通っていた第6モンテッソーリ学校でも、91人のユダヤ人児童が学校を去ることを余儀なくされました。

アンネもその一人でした。

本来なら、アンネはもう1年間、モンテッソーリ学校で学ぶ予定でした。

しかし、それは許されませんでした。

12歳のアンネは、ユダヤ人の生徒だけが通う中等学校、ユダヤ人リセ(Joods Lyceum)へ進むことになったのです。

学校の記録には、1941年9月27日にアンネが除籍されたことが残されています。

友だちとともに過ごした教室。

自分で活動を選び、学んでいた時間。

それらは、アンネ自身の意思とは関係なく奪われました。

2019年の調査報告書によると、この学校から排除された91人のユダヤ人児童のうち、戦争とホロコーストを生き延びたのは約44%でした。

ホロコーストとは、ナチス・ドイツとその協力者によって行われた、ユダヤ人に対する組織的な迫害と大量虐殺のことです。

学校から子どもたちが姿を消したことは、その後に続く、さらに大きな悲劇の始まりでもあったのです。

ユダヤ人児童の学校からの排除(アンネ・フランクの家)

日記を書くことが、アンネの支えになった

1942年6月12日。

13歳の誕生日を迎えたアンネは、日記帳を手に入れました。

赤と白のチェック柄の表紙がついた日記帳です。

そのわずか3週間後の7月6日、アンネ一家は隠れ家での生活を始めることになります。

隠れ家は、父オットーが働いていた会社の建物の奥に設けられていました。

そこでは、昼間に大きな物音を立てることも、自由に外へ出ることもできませんでした。

発見されれば、命の危険があります。

そんな生活の中で、アンネは日記を書き続けました。

家族との関係、将来の夢、友だちのこと、自分自身の気持ち。

戦争や差別への疑問だけでなく、思春期の少女らしい悩みや喜びも、日記には率直に書かれています。

やがてアンネは、自分の文章を本として出版したいと考えるようになりました。

1944年5月11日の日記には、将来はジャーナリストになり、さらに有名な作家になりたいという願いが記されています。

それは、周囲の大人が彼女に与えた目標ではありません。

アンネ自身が抱いた夢でした。

1944年には、戦争が終わった後に隠れ家での生活を出版できるよう、日記の文章を自ら書き直す作業も始めています。

文章を書くことは、アンネにとって、自分の気持ちや考えを整理し、表現する大切な営みになっていたのでしょう。

アンネが日記を書き直し始める(アンネ・フランクの家)

15歳で終わったアンネの人生

1944年8月4日。

約2年間続いた隠れ家での生活は、突然終わりを迎えます。

隠れ家がナチスの捜査員らに発見され、アンネを含む8人の住人が逮捕されたのです。

アンネは、オランダのヴェステルボルク収容所を経て、ポーランドのアウシュヴィッツ強制収容所へ送られました。

その後、姉マルゴットとともに、ドイツのベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送されます。

1945年4月、英国軍による解放後に撮影されたベルゲン・ベルゼン強制収容所。アンネ・フランクはこの収容所で15歳の生涯を終えました。撮影:M. H. Wilson/Imperial War Museums/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)。

そこでは食料が極端に不足し、衛生状態も悪く、多くの収容者が病気や飢えに苦しんでいました。

アンネとマルゴットも発疹チフスに感染したと考えられています。

そして、1945年2月、姉妹は相次いで亡くなりました。

アンネは、まだ15歳でした。

二人の正確な死亡日は分かっていません。かつては1945年3月に亡くなったとされていましたが、アンネ・フランクの家による2015年の調査では、2月に亡くなった可能性が高いと結論づけられています。

ベルゲン・ベルゼン強制収容所がイギリス軍によって解放されたのは、そのわずか2か月ほど後のことでした。

父オットーは、家族でただ一人、戦争を生き延びました。

戦後、アムステルダムへ戻ったオットーは、妻と二人の娘が亡くなったことを知ります。

そして、アンネたちの隠れ家生活を支えていたミープ・ヒースから、娘が残した日記を受け取りました。

そこには、父親も知らなかったアンネの思いや、作家になりたいという願いが書かれていました。

1947年6月25日、オットーの尽力によって、アンネの日記は『Het Achterhuis(隠れ家)』という題名で出版されました。

その本は、のちに『アンネの日記』として世界中で読まれることになります。

けれども、アンネ自身が本の完成を見ることはありませんでした。

アンネは10歳のとき、アメリカの少女に、自分の通うモンテッソーリ学校について説明していました。

自分で活動を選べること。

そして、自分で取り組むべき目標があること。

そんな学校生活を送っていた少女が、やがてユダヤ人であるという理由だけで学校を追われ、自由を奪われ、最後には命まで奪われてしまいました。

アンネがどのような作家になったのか、私たちはもう知ることができません。

彼女が生き続けていれば、どんな物語を書き、どんな未来を選んでいたのでしょうか。

一人の子どもが、自分の可能性を生きることさえ許されなかった。

アンネ・フランクの短い生涯は、教育を受けることも、自分の考えを表現することも、そして自分の人生を生きることも、決して当たり前ではないということを、今も私たちに問いかけています。

映画になった『アンネの日記』

アンネ・フランクの生涯と『アンネの日記』は、これまで何度も映画化されてきました。

1959年には、ジョージ・スティーヴンス監督によるアメリカ映画『アンネの日記』が公開され、アカデミー賞3部門を受賞しました。

さらに2016年には、ハンス・シュタインビヒラー監督によるドイツ映画『アンネの日記』(原題:Das Tagebuch der Anne Frank)が制作されました。

アンネ役を演じたのはレア・ファン・アッケン。アンネ自身の日記や家族の記録をもとに、隠れ家での生活だけでなく、思春期の少女としての葛藤や将来への夢も描かれています。

映画はモンテッソーリ教育を主題としたものではありませんが、アンネがどのような少女だったのかを知るための作品として紹介します。

映画『アンネの日記』(2016年・ドイツ) 公式予告編/Universal Pictures Germany(ドイツ語)

アンネ・フランクとは?

1940年、アムステルダムの第6モンテッソーリ学校で机に向かい、鉛筆を持つアンネ・フランク

アンネ・フランク(Anne Frank/1929年6月12日〜1945年2月頃)

ドイツ生まれのユダヤ人少女で、『アンネの日記』の著者。ナチスによる迫害を逃れて家族とともにオランダへ移住し、1934年から1941年までアムステルダムのモンテッソーリ学校で学びました。

1942年から約2年間、家族とともに隠れ家で生活し、その間に日記を書き続けました。1944年8月に逮捕され、強制収容所へ送られた後、15歳で亡くなりました。

戦後、父オットーによって出版された『アンネの日記』は、70以上の言語に翻訳され、世界中で読み継がれています。現在も、戦争や差別、人間の尊厳について考えるための重要な記録となっています。

この記事で紹介した書籍

アンネが生きた証として、今も世界中で読み継がれている『アンネの日記』。

隠れ家で過ごした約2年間、アンネは家族や友人への思い、将来の夢、そして自分自身の気持ちを書き続けました。

そこには、戦争の悲惨さだけでなく、思春期を生きる一人の少女の率直な言葉が残されています。

今回紹介するのは、アンネが自分のために書いた日記と、出版を目指して書き直した原稿をもとに編集された「完全版」に、新たに発見された5ページを追加した『アンネの日記 増補新訂版』です。

アンネの日記 増補新訂版 表紙

『アンネの日記 増補新訂版』
著者:アンネ・フランク
翻訳:深町眞理子
出版社:文藝春秋(文春文庫)
刊行年:2003年

13歳から15歳までのアンネが、隠れ家での日々を記録した日記。家族への複雑な思い、恋への憧れ、作家になりたいという夢など、一人の少女の豊かな内面が綴られています。

モンテッソーリ学校で幼少期を過ごしたアンネが、その後どのような言葉を残したのか。ぜひ日記そのものを読んでいただきたい一冊です。

参考資料

RECENT ENTRY 一覧

2026.11.06カテゴリ / コラム モンテッソーリ教育に影響を受けた著名人

アンネ・フランクとモンテッソーリ教育 – 10歳で語った学校生活と、13歳から書き続けた日記

2026.11.05カテゴリ / コラム 赤ちゃんの発達と子育て

赤ちゃんの目には何が映っている? – 31人・868時間の「子ども目線の動画」が教えてくれたこと

2026.11.05カテゴリ / コラム 漫画で学ぶモンテッソーリ教育

モンテッソーリ漫画|第10話「これきもちいい」

2026.11.04カテゴリ / コラム モンテッソーリ研究を読む

戦争で傷ついた子どもに、教育は何ができる? – マリア・モンテッソーリが構想した「ホワイトクロス」

2026.11.03カテゴリ / モンテッソーリ研究を読む

AIが答えを出す時代に、子どもが自分で考える意味 – AMI中国大会で語られたモンテッソーリ教育の未来

2026.11.02カテゴリ / コラム モンテッソーリ研究を読む

教室ごと移動するモンテッソーリ園 – ケニアの遊牧民サンブルの子ども200人を支える「テントの学校」